秋葉原〜神田明神
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JR主催 秋葉原・神田に歴史の跡を求めて 受付風景(JR 秋葉原駅) 秋葉原〜神田明神〜湯島聖堂〜ニコライ堂〜交通博物館〜浅草橋〜秋葉原(総行程8.1km) 本来の受付は昭和通り口であるが、再開発の工事中で手狭なため、駅構内でも行っていた。 |
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JR 秋葉原駅(昭和通り口) 東京メトロ(旧営団)日比谷線の秋葉原駅があり、再開発の工事中である。 |
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昭和通りを北上 | |
再開発が進む秋葉原 | |
再開発が進む秋葉原 | |
左折して蔵前橋通りへ | |
左折して蔵前橋通りへ | |
中央通りを越えて西進。 | |
秋葉原電気街 中央通り沿いに電気街が並ぶ。 |
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末広町 由来 江戸時代は町の南側は商人や職人の住む町屋で、北側は越後藩上屋敷など武家屋敷であった。しかし、この地は上野彰義隊の戦いで戦火にさらされ、明治2年(1868年)に末広町が誕生した。これからは末広がりで町が平和に繁栄するように、と言う願いが込められているのかもしれない。 |
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千代田区 コミュニティバス 風ぐるま 末広交番前バス停 港区のちぃバスと違い、日に数本の上、第2、4日曜日など運休日もある。 |
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神田同朋町 由来 神田明神にほど近いこの一帯は、江戸時代初期は大きな寺が並ぶ寺社地であった。ところが明暦3年(1657年)の明暦大火(振袖火事)で、神田一帯は焼け野原となった。翌年幕府の再開発の法尊出、神田明神裏門周辺は御坊主衆の屋敷地に指定された。御坊主衆とは、江戸城内で将軍や老中などに仕えた法体姿の案内世話役で、同朋衆とも呼ばれた。 |
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左折して明神下中通りへ | |
神田明神 男坂 思わず見上げてしまうほどの急坂である。 |
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神田明神 男坂 | |
神田明神 神田明神は、天平2年(730年)、現在の千代田区大手町将門塚周辺に創建。それから約200年後、平将門の首を奪い返して塚を築き、葬った。さらに、延慶2年(1309年)には将門公の霊をも相殿に祀り、神田明神と名付けた。元和2年(1616年)現在の場所に移り、江戸城の鬼門の守護神となり江戸総鎮守として現在に至る。 |
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神田明神 | |
神田明神 石獅子 幕末に両替商により獅子の子落しの作り物が寄進された。関東大震災により獅子山が崩壊、子獅子は失われたが、親獅子は保存され、再建された。 |
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神田明神 石獅子 | |
神田明神 |