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本郷三丁目交差点で右折 |
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東大 赤門 |
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樋口一葉所縁の法真寺
東大の赤門の前にあり、樋口一葉が明治9年(1876年 一葉4歳)から明治14年(1881年 一葉9歳)の5年間住んだ家は。寺に向って左手にあった。後に一葉はこの当時の思い出を「桜木の宿」として雑誌に書いている。 |
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樋口一葉所縁の法真寺 |
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樋口一葉所縁の法真寺 |
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樋口一葉所縁の法真寺 腰衣観世音 |
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樋口一葉所縁の法真寺 一葉塚 |
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石川啄木所縁の蓋平館別荘跡
石川啄木は明治41年(1908年)に上京、赤心館に下宿したが、貧困のため下宿代が払えず、金田一京助の助けで蓋平館に移った。赤心館時代に詠んだのが「東海の〜」の短歌である。 |
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石川啄木所縁の蓋平館別荘跡
「東海の小島の磯の白砂に 我泣きぬれて蟹とたわむる」の碑で、左下に蟹がいる。 |
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新坂
この辺りは石川啄木の蓋平館別荘を始め、高級下宿が多く、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など文人が多く住んだ。 |
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新坂
この坂をおり、言問通りに出て菊坂下交差点ですぐ左折、民家が立ち並ぶ狭い道を歩く。白山通りの都営三田線春日駅の近く、西片交差点から東京メトロ(旧営団)南北線が走る道路沿いを歩く。 |
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樋口一葉所縁の伊勢屋質店
樋口一葉が菊坂町に住んでから、度々利用した質屋である。 |
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宮沢賢治旧居跡
大正10年(1921年)1月に上京、8月まで菊坂町に間借りした。童話集「注文の多い料理店」の作品のいくつかはここで書かれた。 |
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旧真砂町
寛永(1624年〜1644年)以来、真光寺門前と称して桜木神社の一部だけが町屋だった。明治2年(1869年)、古庵屋敷を併せて真砂町の新町名をつけた。浜の真砂の限りないように、と町の繁栄を願って命名した。「婦系図」など数多い小説の舞台となり、文人も多数この地に住んだ。 |
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坪内逍遥旧居・常盤会館
坪内逍遥は明治17年(1884年)にここに住み、小説神髄を発表した。逍遥移転後、伊予松山藩主久松氏の育英事業として、明治20年(1887年)に常磐館と言う寄宿舎となった。正岡子規や、河東碧梧桐も寄宿した。 |
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金田一京助・春彦 旧居跡
金田一春彦は京助の長男である。 |
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樋口一葉の菊坂旧居跡
一葉は父の死後、明治23年(1890年)から明治25年(1892年)の3年間、母と妹の3人で菊坂町に住み、小説家として立つことを決意した。 |
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樋口一葉の菊坂旧居跡
路地の狭い道の奥にある。 |
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白山通り
言問通りとの交差点、西片で右折、白山に向う。 |
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樋口一葉終焉の地
白山通りを歩き、次の交差点の紳士服のコナカのビルの前にある。
樋口一葉(本名夏子)は明治27年(1894年)にここ丸山福山町に移り、「たけくらべ」、「十三夜」、「ゆく雲」などを書いた。 |
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樋口一葉終焉の地 一葉樋口夏子碑
一葉の明治27年(1894年)4月28日と、5月1日の日記を記した。 |
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樋口一葉終焉の地 一葉樋口夏子碑 |
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樋口一葉終焉の地 |