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JR 川崎駅〜旧東海道〜旧川崎宿 宗三寺

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【撮影記録】
平成24年 9月 25日 曇り
10:15〜14:35(昼食 40分) 5,800歩(概算 3.8km)

このイベントはKSN(川崎シニアネット)の主催で、幹事は米山賢一郎氏である。
明け方まで激しい雨が降り続き、出発時には止んだがどんよりとした曇り空だった。川崎宿は京急本線や京浜東北線沿線歩きや、川崎大師巡りなどで何度も歩いているが、さすがに川崎市内出身の会員が多いせいか、見つけられなかった宗三寺の遊女供養碑や、一行寺の閻魔像など初めてのものもあり、実り多いイベントであった。
JR 川崎駅 東口 地下街 アトレ入口 JR 川崎駅 東口 地下街 アトレ入口 
JR 川崎駅 東口 バスターミナル JR 川崎駅 東口 バスターミナル 
JR 川崎駅 東口 バスターミナル 石敢富碑 JR 川崎駅 東口 バスターミナル 石敢富碑 

石敢富の由来

昭和四十一年九月沖縄諸島は数次の台風に襲われ甚大な被害を受け、なかでも宮古島は蘇鉄地獄といわれるほどの悲惨な状況でありました。
川崎市議会は超党派で救援を決議し広く全市的救援活動を展開いたしました。この碑は救援活動に対する返礼として宮古島から特産の名石トラバーチンに石敢富と刻み贈られたものです。
石敢富とは古代中国の強力無双の力士の名前でこの三字を刻んで三さ路や十字路などに建て厄除とする習慣が伝来し沖縄南九州地方に及んでおります。
ここに川崎市と沖縄を結ぶ友好親善と文化交流の絆として石敢富を建て市民の交通安全を祈るものであります。
JR 川崎駅 東口 バスターミナル 石敢富碑 JR 川崎駅 東口 バスターミナル 石敢富碑 
川崎駅前東交差点で右折、市役所通りへ 川崎駅前東交差点で右折、市役所通りへ 
市役所通りを東進 銀座街 市役所通りを東進 銀座街 
市役所通りを東進 銀柳街 市役所通りを東進 銀柳街 
市役所通り 砂子交差点で左折、旧東海道 川崎宿へ 市役所通り 砂子交差点で左折、旧東海道 川崎宿へ 
旧東海道 川崎宿 砂子一丁目交差点 旧東海道 川崎宿 砂子一丁目交差点 

交差点で左折すると京急本線の京急川崎駅に着く。
旧東海道 川崎宿 砂子一丁目交差点 問屋場 旧東海道 川崎宿 砂子一丁目交差点 問屋場 

伝馬人足、飛脚、本陣の休泊などの宿場業務を監督する問屋場。
川崎宿では、約三〇名の問屋役人が昼夜交代で勤務し、その職務は繁忙をきわめた。
旧東海道 川崎宿 砂子一丁目交差点 中の本陣 旧東海道 川崎宿 砂子一丁目交差点 中の本陣 

この付近にあった惣兵衛本陣は、佐藤・田中両本陣の間に位置することから、通称「中の本陣」とも呼ばれたが、江戸後期に至り、廃業した。
旧東海道 川崎宿 砂子一丁目交差点 旧東海道碑 旧東海道 川崎宿 砂子一丁目交差点 旧東海道碑 
旧東海道 川崎宿 砂子の里資料館 旧東海道 川崎宿 砂子の里資料館 

イベントは火曜日に行われたが、本日休館である。
旧東海道 川崎宿 川崎宿の由来 旧東海道 川崎宿 川崎宿の由来 

慶長六年(一六〇一)徳川家康が東海道を新たに整備して、三十九宿を定めたが、川崎は品川宿と神奈川宿の合の宿で、元和九年(一六二三)家光の時に宿駅に追加制定され、いわゆる東海道五十三次となった。
慶長五年(一六〇〇)江戸三大橋の一つとして六郷大橋(一〇九間)が架けられたが、度々の洪水で破損し、元禄元年(一六八八)から船渡しとなった。
川崎宿は、久根崎・新宿・砂子・小土呂四町よりなり、「六郷の渡しを渡れば万年屋。鶴と亀とのよね饅頭」と唄われた。徳川将軍の四代にわたるお大師様への厄除け参詣が、江戸庶民の大師詣を盛んにし、大師には門前町ができて大いに賑わった。

(続く)
旧東海道 川崎宿 川崎宿の由来 旧東海道 川崎宿 川崎宿の由来 

(承前)

明治五年(一八七二)新橋ー横浜間に鉄道が開通したが、大師詣客のため、その中間に唯一川崎駅が設置されたことは、驚きに値する。しかしその後、東京ー横浜間の通過町としてさびれたが、明治末頃から六郷川を利用して川岸に産業が興り、大正・昭和には臨海部の埋立地に重化学工業が林立し、日本経済をリードする一大産業都市に発展した。
当川崎宿は宝暦や文久の大火、安政大地震、また、昭和二十年四月(一九四五)の米軍B29の大空襲のため、江戸を物語る面影は全て焼失し、今ては浮世絵や沿道の古寺の石造物から、わずかに往時の川崎を偲ふのみである。
旧東海道 川崎宿 宗三寺 旧東海道 川崎宿 宗三寺 
旧東海道 川崎宿 宗三寺 本堂 旧東海道 川崎宿 宗三寺 本堂 

中世前期、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していたが、その時代荘内に勝福寺という寺院があり、弘長三年(一二六三)在地領主である佐々木泰綱が中心となり、五千人余りの浄財をあつめて梵鐘の鋳造が行われた。勝福寺はその後退転したようであるが、宗三寺はその後身とみられ、戦国時代、この地を知行した間宮氏が当寺を中興している。
『江戸名所図会』に本尊釈迦如来は、
「一尺ばかりの唐仏なり」とあるように、本尊はひくい肉髯、玉状の耳柔、面長な顔、腹前に下着 結び、大きく掩腋衣をあらわす中国風の像である。今、墓地には大阪方の牢人で、元和元年(一六―五)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。 
旧東海道 川崎宿 宗三寺 墓所 旧東海道 川崎宿 宗三寺 墓所 

後方に京急川崎駅の大師線ホームが見える。
旧東海道 川崎宿 宗三寺 遊女供養碑 旧東海道 川崎宿 宗三寺 遊女供養碑 

墓所入口の対角線上の角(北西)にひっそりとある。

特に案内板もないため、何度も墓所に寄って探しても見つからなかったが、さすがにKSN(川崎シニアネット)の会員たちは場所を知っていた。
旧東海道 川崎宿 宗三寺 遊女供養碑 旧東海道 川崎宿 宗三寺 遊女供養碑 

「紅燈巷女万霊供養塚」と彫られており、今なら人権侵害と言われそうな露骨な碑銘である。



 
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