|
旧東海道 川崎宿 宗三寺脇を出て一行寺へ |
|
旧東海道 川崎宿 一行寺
川崎が東海道宿駅として正式に起立するのは、元和九年(一六二三)のことであり、それとともに宿駅の機構や、町の整備も進められた。浄土宗一行寺もその頃開創の寺院で、本陣(兵庫)が火急の場合、宿泊者の避難所にもあてられた。
「仮山碑」は、時の名主稲波氏が宿民中村翁の庭園を讃えて詠じた詩文を刻んだものであるが、明治十年廃園となり、のち昭和三五年、現在地へ移築したのである。
なお、境内には川崎宿で寺小屋「玉淵堂」をひらき、太田南畝などとも交誼のあった能書家浅井忠良の墓や、富士講の大先達として幕末期に著しい宗教活動を展開した西川満翁の墓がある。 |
|
旧東海道 川崎宿 一行寺 |
|
旧東海道 川崎宿 一行寺 本堂
主催のKSN(川崎シニアネット)の幹事の尽力により、特別に本堂を見物させて頂き、住職による説明が受けられた。 |
|
旧東海道 川崎宿 一行寺 閻魔像 |
|
旧東海道 川崎宿に戻り、南東に歩く |
|
旧東海道 川崎宿 宝暦十一年(一七六一年)の大火
川崎宿200年で最大の火災である。小土呂から六郷渡し場まで町並みはほぼ全焼。再三の火災から立ち直った川崎宿であるが、今、宝暦以前の歴史文献は見当たらない。 |
|
旧東海道 川崎宿 田中本陣と休愚
田中(兵庫)本陣は、寛永五(一六二八)年に設けられた宿内最古の本陣である。ここ出身の休愚は宿の財政再建に尽力した人物で、当時の農政を論じた『民間省要』の著者としても知られる。 |
|
旧東海道 川崎宿 田中本陣(下の本陣)と田中休愚
川崎宿に三つあったといわれる本陣の中で、最も古くからあった田中本陣は、寛永五年(一六二八)に設置されている。田中本陣はその場所が最も東、すなわち江戸に近いため「下(しも)の本陣」ともいわれた。
本陣は大名や幕府の役人、勅使など武士階級専用の宿であった。その構造は、武士階級を宿泊させるために、当時一般の民家には許されなかった門や玄関構え、上段のある書院など、書院造りを取り入れた空間と、本陣の主(宿場の中でも財力があり、信頼のおける名家などが幕府から選ばれた)の一家の生活空間との二つを併せ持っていた。建物の改造や、再建には幕府や諸藩から助成を受け、半官半民的な運営がなされた。
本陣は参勤交代の導入により、多くの大名が街道を旅するようになるとともに栄えたが、江戸後期には、大名家の財政難やら参勤交代の緩和により、衰えも目立った。安政四年(一八五七)、アメリカ総領事ハリスが、田中本陣の荒廃ぶりを見て、宿を万年屋に変えたことは有名である。(以下略) |
|
旧東海道 川崎宿 本町一丁目交差点 |
|
旧東海道 川崎宿 本町交差点で大師道(国道409号)を渡る
大師道(国道409号)は左にある市役所通りとの交差点からは府中街道となり、右折すると川崎大師を経て東京アクアラインにつながる。 |
|
旧東海道 川崎宿 本町交差点 新宿という町
東海道の他の宿場より遅れてつくられた川崎宿はいわば新宿。後に中心部だけをこう呼んだのか。あるいは、宿を設ける際、新たにできた町並みをこう呼んだものか。このあたりが新宿だった。 |
|
旧東海道 川崎宿 本町交差点 稲荷横丁の碑
稲荷横丁の碑が交差点を渡った所にある。角を曲がると徳川吉宗が将軍就位のため江戸に向かう時休んだと言われる小社の川崎稲荷社がある。 |
|
旧東海道 川崎宿 OKストア
OKストアの壁に史跡めぐり案内が設けられており、六郷の渡しから川崎駅前を経て、八丁畷駅まで記されている。 |
|
旧東海道 川崎宿 六郷の渡しと旅籠街
六郷橋を渡る歩道横にある。
家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が続きました。舟をおりて川崎宿に入ると、街道筋は賑かな旅龍街。
幕末のはやり唄に「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮……」。なかでも万年屋とその奈良茶飯は有名でした。
○川崎宿の家並
旅龍六二軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕篭屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など合計三六八軒。
―文久三年の宿図から―
(一八六三) |
|
多摩川に架かる六郷橋 側道を進む
大師電気鉄道の六郷橋停留所跡を見るために側道を歩く。 |
|
六郷橋下 大師電気鉄道 六郷橋停留所跡
KSN(川崎シニアネット)の幹事の説明がなければホーム跡とは気づかないほど狭い。
大師電気鉄道は京急大師線で、当初人力車組合の反対で川崎駅まで乗り入れられず、六郷橋停留所が始発駅だった。 |
|
六郷橋下 大師電気鉄道 六郷橋停留所跡 |
|
側道を戻り左折、六郷橋下を進み左折 |
|
第一京浜 多摩川に架かる六郷橋南詰 長十郎梨のふるさと
多摩川沿いにどこまでも続いていた梨畑。明治中頃、病害に強く甘い新種が大師河原村で生まれた。
発見者当麻辰次郎の屋号をとり、「長十郎」と命名されたこの梨は川崎からやがて全国へ。 |
|
第一京浜 多摩川に架かる六郷橋南詰 明治天皇 六郷渡御碑 |
|
第一京浜 多摩川に架かる六郷橋南詰 明治天皇 六郷渡御碑
明治元年(1868年)に明治天皇が江戸に向かう際、橋が架かっていないため、船橋で渡った。 |
|
第一京浜 多摩川に架かる六郷橋南詰 六郷の渡し
関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよぱれ東海道の交通を遮る障害でもありました。
そこで慶長五年(一六〇〇)、徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(一六八八)七月の大洪水で流されたあとは、架橋をやめ明治に入るまで船渡しとなりました。渡船は、当初江戸の町人らが請け負いましたが、宝永六年(一七〇九)三月、川崎宿が請け負うことになり、これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。 |
|
第一京浜 多摩川に架かる六郷橋南詰 川崎大師の燈篭 |
|
六郷橋下 大師電気鉄道 六郷橋停留所跡 |
|
第一京浜 六郷橋南詰 大師道 |