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内堀通り(都道401号) 竹橋交差点で直進、代官町通りへ 内堀通り(都道401号) 竹橋交差点で直進、代官町通りへ 
内堀通り(都道401号) 竹橋交差点 清水濠に架かる竹橋 内堀通り(都道401号) 竹橋交差点 清水濠に架かる竹橋 
内堀通り(都道401号) 竹橋交差点 清水濠に架かる竹橋 内堀通り(都道401号) 竹橋交差点 清水濠に架かる竹橋 

高架は首都高都心環状線である。
北の丸公園 代官町通り 紀伊国坂 東京国立近代美術館 北の丸公園 代官町通り 紀伊国坂 東京国立近代美術館 
北の丸公園 代官町通り 紀伊国坂 北の丸公園 代官町通り 紀伊国坂 

北の丸公園

 江戸時代のはじめ、このあたりは関東総奉行内藤清成らの屋敷となり、代官町と呼ばれるようになりました。その後、三代将軍家光の弟、駿河府中藩主徳川忠長や春日局、家光の次男松平長松(のちの甲斐甲府藩主徳川綱重)などの屋敷となりました。さらに享保十六年(1731)に八代将軍の次男徳川宗武(御三卿田安家)、宝暦八年(1758)には九代将軍家重の次男徳川重好(御三卿清水家)がそれぞれ上屋敷を与えられています。安政三年(1856)には、この絵図にも見られるように田安家・清水家上屋敷のほかに御蔵地、植溜御用地、馬場などがありました。
 明治維新後、田安家・清水家の上屋敷は一時御用邸となり、その後は近衛歩兵営用地となりました。近衛歩兵営では咀治十―年(1878)、日本初の兵士反乱事件「竹橋事件」が起きています。
 明治八年(1875)、ここは東代官町、西代官町となりました。そして明治十二年(1879)、二つの町が合併して新たに代官町と改称しました。
 第二次世界大戦後は、森林公園として整備が進められ、昭和四十二年(1967)、住居表示の実施により北の丸公園と改められました。名称はかつての江戸城北の丸にあたることに由来します。
 公園は、昭和天皇の還暦を記忿して昭和四十四年(1969)に開園し、園内には日本武道館や科学技術館、国立公文書館、国立近代美術館などがあります。また石垣には国指定天然記忿物のヒカリゴケ生育地もあり、都心のオアシスとして親しまれています。
北の丸公園 代官町通り 紀伊国坂 北の丸公園 代官町通り 紀伊国坂 

この坂を紀伊国坂といいます。「紫の一本」という本には「紀伊国坂、松原小路より竹橋御門へ出る坂をもいう。今の灰小路の所、もと尾張紀伊の御屋敷ありし故なり」とあり、「再校江戸砂子」には「紀伊国坂、竹橋御門へくだる小坂をいう。むかし此所に尾紀の両御殿ありしなり。今、赤坂に同名あり」とかかれています。
北の丸公園 代官町通り 紀伊国坂 北の丸公園 代官町通り 紀伊国坂 
北の丸公園 代官町通り 紀伊国坂 国立公文書館 北の丸公園 代官町通り 紀伊国坂 国立公文書館 
北の丸公園 代官町通り 北桔橋門 北の丸公園 代官町通り 北桔橋門 

北桔橋門から皇居東御苑に入ることができる。
北の丸公園 代官町通り 北の丸公園入口 北の丸公園 代官町通り 北の丸公園入口 

正面が北の丸公園である。

江戸時代の始め、このあたりは関東総奉行内藤清成の屋敷となり代官町と呼ばれた。その後、享保16年(1731年)に八代将軍吉宗の次男徳川宗武(田安家)、宝暦8年(1758年)に九代将軍家重の次男徳川重好(清水家)がそれぞれ上屋敷を与えられた。昭和42年に整備され北の丸公園となった。
北の丸公園 代官町通り 北の丸公園入口 界隈案内図 北の丸公園 代官町通り 北の丸公園入口 界隈案内図 
北の丸公園 代官町通り 首都高 代官町入口 北の丸公園 代官町通り 首都高 代官町入口 

左に首都高都心環状線の代官町入口があり、右の木立ちの後に旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館)がある。
北の丸公園 旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館) 北の丸公園 旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館) 
北の丸公園 旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館)、北白川宮能久親王銅像 北の丸公園 旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館)北白川宮能久親王銅像 

【国指定重要文化財】 
 明治43年(1910)に完成しました。陸軍技師田村鎮の設計による赤レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風で、明治洋風建築としては代表的な存在となっています。 関東大震災や弟二次大戦をくぐりぬけ、ほぼ完全な姿をとどめています。
 昭和52年に一部を改装して東京国立近代美術館工芸館として生まれかわりました。
北の丸公園 北白川宮能久親王銅像 北の丸公園 北白川宮能久親王銅像 

 弘化四年(一八四七)伏見宮邦家親王の第九皇子として御誕生。嘉永元年(一八四八)青蓮院宮御相続、安政五年(一八五八)輪王寺宮御相続、公現法親王(俗名能久)と称せられ、上野寛永寺の門跡となられる。
 明治三年(一八七〇)還俗して伏見宮に御復帰、軍籍に就かれた。同年勅令によリプロシヤ国留学を命ぜられ、同国歩兵・砲兵聯隊、参謀学校等で兵学を学ばれ、明治十年御帰朝、近衛砲兵聯隊御隊附。御留学中の同五年白川宮を御相続遊ばれた。
 同十七年陸軍少将に任ぜられ、歩兵第一旅団長、参謀本部御出仕。同二十五年陸軍中将に任ぜられ、第六・第四師団長を御歴任、同二十八年一月近衛師団長に親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出征、炎熱瘴癘の地で疫病に罹らせ給い、明治二十八年十月二十八日(一八九五)台南に於て薨去遊ばされた。御年四十九歳。陸軍大将に任ぜられ、大勲位菊花章頸飾および功三級金鵄勲章を賜わり、国葬を以て豊島岡陵に御埋棺された。
北の丸公園 北白川宮能久親王銅像 北の丸公園 北白川宮能久親王銅像 
旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館) 旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館) 

旧近衛師団司令部庁舎は代表的な明治洋風建築で、国の重要文化財に指定されている。秋山好古は大正4年に近衛師団長を拝命した。現在は東京国立近代美術館工芸館となっている。10〜17時(入館は16時30分まで)、月曜(祝日の場合は翌日)、展示替え期間、年末年始休。
北の丸公園 旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館)から代官町通りへ 北の丸公園 旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館)から代官町通りへ 
北の丸公園 桜並木の代官町通りを西進 北の丸公園 桜並木の代官町通りを西進 
代官町通り 千鳥ケ淵交差点で内堀通り(都道401号)を渡る 代官町通り 千鳥ケ淵交差点で内堀通り(都道401号)を渡る 



 
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