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靖国通り(都道302号) 神保町古本店街 |
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靖国通り(都道302号) 駿河台下交差点手前の交差点で左折、錦華通りへ
交差点名はなく、錦華通りは靖国通りに出てくる一方通行の狭い道である。 |
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靖国通り(都道302号) 駿河台下交差点手前の交差点で左折、錦華通りへ |
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錦華通り 最初の信号で右折、猿楽通りへ
右の木立ちは区立お茶の水小学校である。 |
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錦華通り 最初の信号で右折、猿楽通りへ |
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猿楽通り お茶の水小学校のフェンス沿いにある夏目漱石の碑
現在のお茶の水小学校の前身の錦華小学校に夏目漱石は学んだ。漱石は成績優秀で飛び級で進級したので、卒業しないまま府立東京中学校に進学している。現在は記念碑が立てられている。 |
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猿楽通り 猿楽公園に入り、左奥の階段を上る |
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猿楽通り 猿楽公園に入り、左奥の階段を上る |
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階段を上ると山の上ホテル裏で、左折 |
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すぐ先の日大理工学部角で右折 |
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正面の山の上ホテル別館で右折
右折すると山の上ホテルの入口で、道なりに坂を下る。 |
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山の上ホテルの入口
山の上ホテルは、池波正太郎、三島由紀夫、山口瞳などの文豪が利用したことで有名。「山」と言うよりは丘で、こじんまりしたホテルであり、明大の校舎に囲まれ、大学の建物のように見える。 |
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坂を下り、明大通りを渡って甲賀通りへ |
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甲賀通りを東進
甲賀通りに入ってすぐのビルの陰に「小栗上野介ここに生まれる」との小さな案内柱が立っている。
目立たない上に説明文も少なく、説明員のボランティアも申し訳なさそうだった。
小栗上野介ここに生まれる
ここに生まれ育った小栗上野介(1827〜1868)は、幕末の外交・財政政策をリードし、横須賀に大造船所を建設してわが国の造船業が近代化する道を開いた。 |
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甲賀通り 小栗上野介生誕の地
小栗上野介生誕の地
小栗上野介は徳川家の旗本小栗家(神田駿河台)に生まれ、日米修好通商条約批准の遣米使節として渡米し、地球を一周して帰国。その後の8年間にわたって幕政を支え、日本の近代化を推し進め、横須賀造船所を建設した。東郷平八郎は、日露戦争後の明治45年に小栗上野介の遺族を自宅に招き「日本海海戦で完全な勝利を得ることができたのは、小栗上野介さんが横須賀造船所を造ってくれておいたおかげです」と謝辞を述べている。 |
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甲賀通り 甲賀坂を下る
この坂を甲賀坂といいます。『東京名所図会』には、南北甲賀町の間に坂があり、甲賀坂という。甲賀の名称の起源とするところは往昔、甲賀組の者多く居住せし故とも、又光感寺の旧地をも記されるか云々とかかれています。
どちらにしてもこのあたり甲賀町とよばれていたことから名がつけられました。甲賀町の名は、昭和八年(一九三三)から駿河台一、三丁目となりました。 |
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甲賀通り 甲賀坂を下る |
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甲賀通り 駿河台三丁目交差点で本郷通り(都道403号)を渡る |
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観音坂を下る
この坂を観音坂といいます。「東京名所図会」には、新編江戸志に、観音坂は埃坂の並び、むかし茅浦観音寺やしきありし故に名づくなりと見ゆ。此の坂の上観音院と称する仏刹ありしことは寛永の古図を見ても知らるべし。新編江戸志に観音寺とあるは観音院の誤りなるばしとかかれています。しかし、延宝(一六七三〜八○)、元禄元年(一六八八)の古図には、このあたりに「芦浦観音寺」が見え、名の起こりは観音寺または観音院によるといえます。 |
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観音坂を下る |
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突き当りを左折、外堀通り(都道405号)へ |
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外堀通り(都道405号) 神田郵便局前交差点
交差点の先は中央線快速の高架で、続けて総武線の高架がある。 |