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第一京浜 品川神社
後鳥羽天皇の御世、文治三年(1187年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である、天比理乃当ス(あめのひりのめのみこと)を勧請して、品川大明神と称し、今は社名を品川神社と改めた。 |
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第一京浜 品川神社
第一京浜国道沿いの急な石段を上った高台にある神社。東京十社の一つで、東海七福神の大黒天を祀る。 |
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第一京浜を北上 |
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第一京浜 北品川交差点で左折、御殿山通りへ
名前ほど大きな通りではないため、黄色のウインドブレーカーを着た係員が誘導している。 |
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御殿山通りを西進 |
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御殿山通り 跨線橋越しに見える御殿山ガーデン ホテルラフォーレ東京 |
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御殿山通りを西進
「しながわ百景 桜の名所の御殿山」のプレートがある。 |
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御殿山通り 御殿山ガーデン ホテルラフォーレ東京 |
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御殿山通り 御殿山ガーデン案内図 |
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御殿山通り 翡翠原石館
鶴見信行館長が30年間収集してきた翡翠原石を公開し、糸魚川、青海の翡翠を未来に残すために開館した日本で唯一の翡翠専門の展示館。5トンの原石や海岸での漂流をはじめ、現地でも見られないほどの数々の美しい石が展示されている。
翡翠原石館先の突き当りを左折、御殿坂へ進む。 |
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御殿坂を下る
大崎一帯は大規模開発のため、このような公園がいくつか設けられている。 |
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御殿坂を下る
御殿山は、長禄年間に太田道灌の館があったと伝えられています。また、江戸初期に将軍の狩猟の休憩所や諸大名の参勤送迎のために御殿が建てられたところからこの名が付けられたと思われています。また、将軍家光・小堀遠州・沢庵和尚が茶の湯に興じた風雅の地でもあり、寛文期頃から吉野桜が植えられ、江戸百景のーつに数えられるほどの花見の名所となり、享保6年には狼藉を禁ずる制札が立てられるほど花見客で賑わったそうですが、嘉永6年の品川砲台(台場)構築と明治期の東海道本線敷設により一部が掘崩され昔の面影は失われました。江戸末2年、高杉晋作らの長州藩士攘夷派による焼討ち事件の舞台ともなりました。明治期には西郷従道、その後戦前までは益田孝らの政財界人の邸宅もありました。
また、縄文時代前期の貝塚として知られる「御殿山貝塚」では、最近の調査で御殿山台地縁辺より弥生時代後期と古墳時代前期の住居跡が発掘されています。 |
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山手通り 目黒川に架かる居木橋(いるきばし)
現在の環状6号線(山手通り)は、室町時代以前のころから品川から多摩方面に抜ける主要な街道であったそうです。品川宿から丁度1kmのこの辺りで目黒川を渡りますが、この川辺に風が吹くとゆらゆらと揺れる一本の松の木があったそうです。多摩方面から来た旅人はこの松の木が見えるともう品川宿も近いと思ったことでしょう。そうしていつしかこの松の木を「ゆるぎの松」と呼んだそうです。この「ゆるぎの松」が時の流れとともに変化し、しだいに「いるぎ(居木)の松」と呼ばれ、ここに架かるここに架かる居木橋の名前の由来となったと言われています。
当時の旅人に親しまれた「居木の松」も安政年間に暴風雨で倒失したとのことで、場所は定かではありませんが現在の森永橋の付近にあったと伝えられています。 |
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桜並木の目黒川沿いに北西に進む |
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桜並木の目黒川沿いに北西に進む |
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左折し、ゲートシティ大崎と大崎ニューシティの間を進む |
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山手通り 大崎駅前交番前交差点手前の階段を上る
階段を上った所は「夢さんばし」である。 |
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物産展開催中の「夢さんばし」を進む |
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ゴール JR 大崎駅 |
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JR 山手線 大崎駅 |