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旧東海道 品川宿(南品川宿) 東海道南品川交差点で右折、ジュネーブ平和通りへ
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ジュネーブ平和通り 八潮高校入口交差点で左折、元なぎさ通りへ |
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元なぎさ通り 品川警察署 |
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元なぎさ通り 新品川橋手前で左折 |
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目黒川沿いの道を進む
新品川橋の近くの民家で見つけたコスモスで、猛暑がアッと言う間に冬間近になった今年ではあるが、秋をわずかに感じさせる。 |
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南品川宿河岸(俗に百足河岸)
江戸時代、品川領の村々では、年貢米を目黒川や陸路をつかってこの河岸まで運び、幕府の浅草御蔵に送っていました。
この南品川宿河岸のことを俗に百足河岸と呼んでいました。百足河岸と呼んだのは、南品川宿河岸のそばに百足屋という大きな旅籠屋があったからだといいます。 |
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目黒川に架かる品川橋を渡る |
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旧東海道 品川宿(北品川宿)を北上 |
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旧東海道 品川宿(北品川宿) 東海道北品川交差点で山手通りを渡る
左折して直進すると北品川交差点で第一京浜と交差し、山手通りを跨ぐように京急本線の新馬場駅がある。 |
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旧東海道 品川宿(北品川宿) 本陣跡・聖蹟公園 |
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旧東海道 品川宿(北品川宿) 本陣跡・聖蹟公園
江戸時代の本陣は、宿場で大名や旗本、公家などが休息や宿泊するところで品川宿には 初め南北品川宿に一軒ずつありましたが、江戸中期には北品川宿のみとなりました。大名などが宿泊する宿泊すると本陣には大名の名を記した関札を立て、紋の入った幕をめぐらしました。
明治維新後後、京都から江戸へ向った明治天皇の宿舎(行在所)にもなったところです。 |
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旧東海道 品川宿(北品川宿) 本陣跡・聖蹟公園 |
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旧東海道 品川宿(北品川宿) 本陣跡・聖蹟公園
品川宿は、江戸四宿の一つで、来海道五十三次の第一番目の宿駅として発達した。ここはその本陣跡であり、品川三宿の中央に位置していた。来海道を行き来する参勤交代の諸大名や、公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところである。明治五年(一八七二)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用された。
現在、跡地は公園となり、明治元年 (一八六八)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、聖蹟公園と命名されている。 |
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本陣跡・聖蹟公園 南側出口から山手通りへ |
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山手通り 聖蹟公園交差点で左折、八ツ山通りへ |
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八ツ山通り 台場歩道橋 |
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八ツ山通り 台場歩道橋脇で右折、御殿山下台場(砲台)跡へ
歩道橋の脇を右折するが、係員が誘導しないと分かりにくい。 |
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御殿山下台場(砲台)跡
嘉永6年(1853)、アメリカ合衆国のペリーが4隻の軍艦(黒船)を率い、日本に開国を求めるため浦賀(神奈川県)に来航しました。鎖国をしていた当時の日本は大騒動になり、徳川幕府は江戸の町を守るため、急いで品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を造ることにしたのです。
伊豆韮山(静岡県)の代官・江川太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに砲台づくりの指導にあたり、第一から第三白場と第五・第六台場は完成させましたが、残りの第四・第七は中途で工事を中止し、第八以下は着工にも至らなかったのです。その代わりとして、陸続きで五角形の砲台を造ることになりました。これが御殿山下台場(砲台)です。明治になると埋め立てられ姿を消しましたが、幸いなことに台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を如ることができます。跡地に建つ台場小学校の敷地はこの台場の半分程の面積を占めています。
台場跡からは石垣が発見され、小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。石垣の上に立つ灯台は、明治3年(1870)、日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯台を模したものです。
品川灯台は、現在は国の重要文化財として愛知県犬山市の博物館明治村に移設されています。 |
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御殿山下台場(砲台)跡
八ツ山通りから来ると突き当り正面が台場小学校で、その右手にある。 |
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八ツ山通り 台場歩道橋手前で右折
八ツ山通りに出る手前の家の脇に進む。 |
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利田神社
正面に利田(かがた)神社がある。その左に進むと鯨塚がある。 |
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利田神社と鯨塚 |
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鯨塚
寛政十年(1798年)、大鯨が品川沖に入り、天王洲に追い込み捕らえたことを記念した塚である。 |
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八ツ山通り 品川浦公園
鯨塚の左にある公園で、モニュメントは鯨である。 |