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JR主催 隅田川の橋めぐり 第3回(東京〜神田) 山手線 東京駅
東京駅〜永代橋〜隅田川大橋〜清洲橋〜清澄庭園〜新大橋〜横山町問屋街〜神田駅(総行程11.0km) |
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JR 東京駅 丸の内南口 |
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東京国際フォーラム
ここで左折し、JRのガード下を通り、鍛冶橋通りを東進する。 |
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鍛冶橋跡
鍛冶橋交差点とJR線の間には、かつて江戸城の外堀があり、鍛冶橋が架けられていた。鍛冶橋の先には江戸城の外郭門の一つ鍛冶橋御門があった。柳之問詰めの一万石余の外様大名が一年ずつ警備を担当した。
門内には南北の町奉行所が移転を繰り返し、一時期は中町奉行所も設けられた。門前には、幕府の御用絵師として有名な狩野探幽が屋敷を拝領し、以来代々住んだため、この家は鍛冶橋狩野家と称された。 |
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京橋交差点で左折、中央通りへ。 |
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高島屋手前で右折。
昭和通り、新大橋通りを越えて東進。本来は永代通りを歩くべきだが、参加者2,000名が歩くと交通渋滞を引き起こしかねない。 |
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新亀島橋 |
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霊厳島の由来
当地区は、今から三百七、八十年前、江戸の城下町が開拓される頃は、一面の沼地葭原であった。寛永元年(1624年)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して土地開発の第一歩を踏みだし、同11年に寺地のの南方に越前福井の藩主松平忠昌が、浜屋敷を拝領した。
明暦3年(1657年)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼、深川白河町に転じヽ跡地は公儀用地となって市内の町が替地となって集団的に移ってきた。 |
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霊厳島の由来 |
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東京ダイヤビルディング
新川にある三菱倉庫が作ったコンピュータビルのはしりで、10年ほど前にコンピュータとネットワークの全社の責任者として勤務していた時は、新亀島橋を毎日通ったものである。 |
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永代橋脇にある船員教育発祥之地の碑
内務卿大久保利通が三菱会社の岩崎彌太郎に命じ、明治8年にこの地に商船学校を開設させた。商船学校は後に越中島の東京商船大学(現在の東京海洋大学)となった。 |
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永代橋
今までは隅田川の上流から、下流へ歩いてきたが、今回は下流の永代橋から歩き始め、上流の新大橋に到る。
元禄11年(1698年)、寛永寺の造営用木材の余材を使って架橋された、橋桁下が高く、橋の上から富士・箱根・筑波・上総と四方を見渡せる眺望だったそうだ。昭和3年、ドイツ・ライン河のレマーゲン鉄道橋をモデルに、現在のアーチ橋か架けられた。 |
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「土木学会選奨土木遺産 帝都を飾るツイン・ゲイト(永代橋)」
「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合い言葉でした。帝都を代表する隅田川の入口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。
これに加えて土木学会では、次のような理由から永代橋と清洲橋をワンセットにして、第一回選奨土木遺産に選定しました。
・二つの橋は、近代橋梁技術の粋をあつめてつくられた震災復興橋梁群の中心的存在である。
・永代橋は、わが国ではじめてスパン100mをこえた橋であり、しかも現存最古のタイド・アーチ橋である。 |
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永代橋から見た上流の隅田川大橋 |
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永代橋から見た下流の佃島リバーシティ21
バブル時代に建てられた高層マンション群である。 |
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永代橋 隅田川テラスの案内図
隅田川沿いの河岸散策のための道である。多くの所でホームレスの青テントが並ぶ。折角の風景が台無しである。 |
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隅田川テラス
後方に見えるのは首都高9号線(深川線)と、その下に併設された隅田川大橋である。 |
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隅田川大橋
昭和54年に架橋され、高速9号線と一般道が上下に重なった珍しい橋。架橋された箱崎周辺は、古くは大名屋敷の並ぶ隅田川Ξ角州のひとつであったか、現在は高速のインターチェンジと東京エアーターミナル(TCAT)と交遊の要衝か建っている. |
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隅田川大橋と水上バス
何か宇宙船を思わせる形であった。 |
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隅田川大橋から見た下流の永代橋 |
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隅田川大橋
上が首都高9号線で、補強工事中である。他の橋と違い、圧迫感もあって、情緒も何もない。 |
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隅田川大橋 |
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東京シティエアターミナル(TCAT)
東京メトロ(旧営団)半蔵門線水天宮駅に接続し、首都高速の箱崎ジャクションの下にある。今は横浜(YCAT)などいくつもあるが、都心で出国手続きをして成田でそのまま搭乗できることが売り物である。成田までの高速の時間が不安定なのが難だが、ツアーで利用したこともある。 |
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清洲橋
昭和3年、関東大震災の復興計画のひとつとして架橋された。当時世界一の美橋といわれたドイツーライン河のケルンの吊り橋がモデル。重量感あふれる男性的な永代橋とは対照的に、女性的な優美な橋として、隅田川一の美橋とも言われている。 |
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清洲橋 |