新橋駅〜銀座柳の碑〜銀座〜
築地場外市場〜波除稲荷神社〜勝鬨橋
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JR主催 隅田川の橋めぐり 第4回(新橋〜越中島) 山手線 新橋駅 新橋駅〜銀座柳の碑〜波除稲荷神社〜勝鬨橋〜佃大橋〜中央大橋〜深川不動尊〜富岡八幡宮〜越中島駅(総行程8.3km) |
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JR 山手線 新橋駅 | |
新橋交差点で左折、中央通りへ 新橋駅から外堀通りを東進、汐留シオサイトが見える新橋交差点で左折する。 |
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銀座柳の碑 新橋交差点のすぐ傍にある首都高の道路下手前に旧新橋の親柱と共にある。 明治初期、埋立地で水分か多かった銀座には.街路樹として湿気に強い柳か植えられた。間幣大震災後、姿を消したが柳の風情を惜しむ声は強く、当時の面影を偲んでこの碑が作られた。西条八十作詞、中山晋平作曲の歌『銀座の柳』が刻まれている。 |
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銀座柳の碑 | |
旧新橋 親柱 銀座柳の碑の横にある。 |
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銀座の柳二世 首都高沿いの御門通りにあり、きれいな並木である。 |
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銀座7丁目風景 | |
銀座5丁目交差点の松坂屋で右折。 | |
みゆき通りを東進。 「みゆき」は、御幸であり、明治天皇か宮城より海軍兵学校に御行幸された折にお通りになられたことから、みゆき通りと呼称されるようになったといわれている。 |
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昭和通りを渡る。 | |
狩野画塾跡 御幸通りから昭和通りを渡ってすぐのビルに案内板がある。 江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれも狩野探幽(守信)、尚信、安信の三兄弟を祖とし、鍛冶橋・木挽町・中橋の三家と木挽町の分家浜町と、四家全て区内に拝領屋敷がありました。 この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出しましたが、明治の近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦はともにヽ木挽町狩野最後の影信(勝川)の門下生です。 |
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新橋演舞場 首都高で浜崎橋に向かって走ると、新橋演舞場が正面に聳え立って見える。 |
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築地場外市場 市場橋 | |
築地場外市場 市場橋から見た朝日新聞社 | |
築地場外市場 仕事の関係で翌日の日曜日に歩いたせいか、場外市場の店は閉まっていた。 |
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右折して晴海通りへ | |
軍艦操練所跡 築地市場の銀座よりの端の築地6丁目交差点を左折した所にある。そのまま進むと波除稲荷神社に着く。 現在、中央卸売市場となっている一帯の土地は、かって、江戸幕府の軍艦操練所があった所です。 安政四年(一八五七)四月ヽ外洋航海の必要性から幕府は旗本、御家人、その他の希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習およびオランダから購入した軍艦の運転を練習させる学校を設置しました。軍艦操練所と名付け、頭取(向井将監・腸満舟等が就任)以下、教授方出役・取調方等を任命しました。 |
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波除稲荷神社 約350年前、江戸開府に伴う市街整備のの築地埋め立ての際、激しい波や風によって困難を極めた工事を無事に治めたといわれる御神体か祀られている,築地という場所柄、『すし塚』「玉子塚」「活魚塚」「海老塚」i鮟鱇塚」なども祀られている。 |
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波除稲荷神社 | |
波除稲荷神社 天井大獅子 大獅子は築地獅子祭として有名だったが、江戸時代末に焼失した。平成2年に再建された。 |
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波除稲荷神社 お歯黒獅子 平成14年に雌の獅子も復活した。 |
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波除稲荷神社から見た築地場外市場 | |
築地中央卸市場 | |
勝鬨橋 昭和15年完成。沿岸の倉庫と造船所との船の往来か淵しかったため、シカゴの橘をモデルとして中央部が開く跳ね橋とした。橋の開閉は日に5回行われていたが、陸上の交通渋滞がひどくなり、昭和45年に開閉が中止。以後「開かずの橋」になった。 隅田川としては最下流の橋であるが、橋としてはレインボーブリッジがより下流にある。 |
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勝鬨橋から見た上流の佃島風景 | |
勝鬨橋 開閉していた時の監視所 | |
勝鬨橋 かって開閉されていた部分 |