西仲通り〜佃大橋〜中央大橋〜永代橋
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月島 西仲通り 勝鬨橋を渡ってすぐに左折する。 |
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月島 西仲通りの西仲橋を渡る。 後方は月島橋で、川は月島川である。 |
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月島 西仲通りはもんじゃ焼きの店が軒を連ねる。 | |
佃小橋 | |
佃小橋 此の場所には、江戸時代後期寛政拾年(1798年)徳川幕府より建立を許された大幟の柱・抱が、埋設されておりますのて立入ったリ掘り起こしたりしないで下さい。 |
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佃島渡船跡の碑 佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲である。徳川初代将軍家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁師を招いて住わせたところという。この島と対岸の佃大橋西詰付近との間を通ったのが佃の渡しである。昭和39年の佃大橋の完或によって廃止された。 |
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佃島渡船跡の碑 | |
北条秀司 句碑 佃島渡船跡の碑の近くにある。 |
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北条秀司 句碑 | |
住吉神社 一の鳥居 隅田川に向かって建てられている。 |
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住吉神社 一の鳥居 | |
住吉神社 隅田川に向かって建てられており、小さな神社であるが、摂津国の住吉神社から分霊したもので、佃島の由来に関わる。 |
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住吉神社 伝 東洲斎写楽終焉の地碑 | |
佃周辺案内図 | |
石川島の灯台 石川島の灯台は慶応2年(1866年)に築かれた。下は公衆トイレである、 |
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佃島由来、江戸時代末期の佃島・石川島 | |
佃島由来 家康は天正10年(1582年)、本能寺の変が伝えられ、間道を通り抜け大坂に向かったが、出水のため途方にくれている時に佃村の庄屋が多数の船を出して一行を助けた。その後家康が江戸に幕府を開くにあたり、漁師に村する恩賞として彼らに幕府の御菜御用を命じるべくその出府を促し、江戸近海において特権的に漁が出来るようになった。正保元年(1644年)には現在の地に百間四方の土地を埋立てて築造し、故郷摂津国の住吉神社の分霊を奉祀し、島の名を佃島と命名した。 |
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江戸時代末期の佃島・石川島 石川島の灯台は慶応2年(1866年)、石川島人足寄場奉行清水純崎が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため 油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので六角二層の堂々たる灯台であった。 この完成を最も喜んだのは近在の漁師であった。 |
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下流に見える佃大橋 佃大橋は、昭和39年に架摘された、隅田川で戦後最初の橋。橋の架かる佃島は佃煮の発祥地として有名だが、大震災と戦災を免れたこともあり、所々に江戸の薫りを残している。 |
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中央大橋と水上バス | |
隅田川テラス風景 | |
中央大橋 平成5年に完成した、隅田川で最も新しい橋。新大橋と同じく中央部のタワーからりワイヤーを橋桁に渡した斜張橋で、ペイエリアのシンボルである高層マンションに挟まれ、斬新で近代的なイメージを持っている。 隅田川の橋巡りとしてはこれが最後であるが、コースの関係で上流の永代橋に向かう。 |
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中央大橋 | |
中央大橋から見た下流風景 | |
中央大橋から見た上流風景 | |
永代橋 | |
永代橋 周辺案内図 現在地の右側にあるのが日本橋川河口である。橋は、豊海橋である。 |
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永代橋 案内 永代橋はヽ元禄年間に「深川の大渡し」に代わって架けられ、佐賀町付近(現在の佐賀一丁目付近)が昔、永代島と呼ぱれていたため、永代橋と名付けられました。橋の両側には広小路を設けて橋番屋が設けられ、高札を立て、武士、医師、出家神主以外の通行人から橋銭を取る有料橋でした。上流の清洲橋の女性的な優美さに相対し、男性的な重量感を持っています。 隅田川と一体となって地域のランドマークとしての役割を果たすとともに、建設された時代の特色を表していることから、1999年に東京都選定歴史的構造物に選定されました。 |
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日本橋川 日本橋川は、江戸時代には物流の中心として市民のくらしを支え、築地に移転する前の魚河岸や、多くの河岸(かし)があり、たいへん賑わいました。また現在も、明治・大正時代に架けられた著名な橋梁や、周辺には当時の栄華をしのぱせる西洋建築物が現存するなど、江戸・東京の歴史を残す川となっています。金融、証券の中心である東京証券取引所や日本銀行本店なども、この川沿いに立地しています。 |
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永代橋 | |
永代橋東詰 案内 永代橋の由来が西詰の案内板と違っている。永代の名は、深川に造られた永代寺に由来するとなっている。 文化4年(1807年)、深川八幡(富岡八幡)の祭礼で欄干の一部が壊れ、多くの死者が出た。この時、一人の浪人が刀を振り回して群集の殺到を防いだ話は有名で、目黒不動近くの海福寺に供養塔がある。 |