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山手通り 羅漢寺交差点で右折
交差点左角のビルに松風羅漢像がある。松風禅師は、元禄年中に536体の羅漢像を彫り、本所五ツ目に五百羅漢寺を築いた。明治42年に下目黒に移転、荒廃したが、昭和56年に再興した。その記念に松風羅漢像を作った。 |
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目黒 海福寺
海福寺は、入口の四脚門や、文化4年(1807年)8月に永代橋が崩落、440名が溺死した人々を供養する永代橋崩落横死者供養塔など、見るべきものが多い。
イベントのガイドマップに記載されていない上に、雨、風ともに強く、立ち寄る人はいない。 |
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目黒 海福寺
明から来朝した隠元隆gが万治元年(1658)に江戸深川に開創した黄檗宗の寺でしたが、明治43年(1910)に現在地へ移転しました。
本尊は釈迦牟尼仏で、他に四天王像や隠元禅師の像、木造阿弥陀如来立像(区指定文化財)が安置されています。木造阿弥陀如来立像は彫刻技法の特徴などから12世紀頃に京都あるいはその周辺で制作されたものと考えられ、都内に現存している稀少な例です。
山門の赤い四脚門(区指定文化財)は明治後期に新宿区上落合の泰雲寺(現在は廃寺)から移建したものです。山門左手前の「文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑」(都指定文化財)は、文化4年(1807)の深川富岡八幡大祭の時に起こった、永代橋崩落事件の死者供養のために建てられたものです。
また境内の梵鐘(都指定文化財)は天和3年(1683)武州江戸中村喜兵衛藤原正次の作で、中国の鐘の形式に似ながら日本の古鐘の形式に範をとるという特異な考案によるもので、江戸時代の梵鐘中でも類例の少ない遺品です。 |
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目黒 五百羅漢寺
この地区一帯の寺社で唯一拝観料が必要なので、イベントの時でも参拝する人はほとんど見ない。
この寺は、元禄8年(1695)江戸本所に建てられた有名な寺でしたが、明治42年(1909)ここに移されました。
本堂及び回廊に安置されている五百羅漢像は、元禄年間松雲元慶禅師が、各方面から寄進を受けて、自ら彫刻したものです。
木造の釈迦三尊や五百羅漢等305体の像はそれぞれ姿の違った人間像として、巧みに表現されており、しかもこのような大型の像が多量に存在することは珍しく、近世彫刻史上注目すベき美術品といわれています。昭和45年に東京都指定文化財に指定されました。
屋上にある銅鐘は安永3年(1774)、田中丹波守藤原重行作で、他に類例のない特徴をもち、鉄牛禅師の銘を刻んであり、国の重要美術品として認定を受けています。 |
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目黒不動尊への近道
右手の人一人がやっとの道を目黒不動尊の塀に沿って歩くと仁王門に着く。 |
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目黒 目黒不動尊(瀧泉寺/恵比寿神) 仁王門
大同3年(808)、慈覚大師円仁の開創と伝わる天台宗の寺院。江戸五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つ、目黒不動尊を祀る。江戸城と五街道の守護、五方の方
難除けとして江戸幕府から庇護を受けるとともに、庶民の行楽地としても賑わった。境内のバス停近くに祀られる恵比寿神は山手七福神の一つで、海運守護や商業繁栄の神として人気がある。
仁王門の手前には白井権八と小紫の比翼塚がある。
雨風をしのぐため、仁王門で留まる人が多く、通行の妨げになっている。 |
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目黒 目黒不動尊(瀧泉寺/恵比寿神)
目黒不動尊は、天台宗で泰叡山滝泉寺といい、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれています。徳川3代将軍家光が堂塔伽藍を造営し、それ以来幕府の保護があつく、江戸近郊におけるもっとも有名な参拝行楽の場所となって、明治まで繁栄をきわめました。
境内は台地の突端にあり、水が湧き老樹が茂り、独鈷の滝や庭の池が美しく、庶民の信仰といこいの場所でした。
壮麗をきわめた古い建物は、戦災で大半が焼失しましたが、本堂、仁王門、書院、鐘楼などの再建が着々と進められ、「前不動堂」(都指定文化財)、「勢至堂」(区指定文化財)は、江戸時代の仏堂建築としての面影を残しています。
また、境内には「銅造役の行者倚像」「銅造大日如来坐像」(区指定文化財)があります。
裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡として知られ、墓地には青木昆陽の墓(国の史跡)があります。 |
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目黒 目黒不動尊(瀧泉寺/恵比寿神)
参道の階段は工事のため閉鎖されており、本堂に行くためには右横の女坂の階段を上らなければならない。雨、風ともに強いため、他の人同様、本堂参拝を断念する。
幕の「甘藷」は墓がある青木昆陽に因む。 |
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目黒 目黒不動尊(瀧泉寺/恵比寿神)
仁王門横の道を進み、すぐ左に小公園がある。ガイドマップの不動公園がこれだ、と参加者は迷うことなく左折し、道なりに歩く。 |
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目黒 林試の森公園沿いに歩く
北の大鳥神社に向かうはずが、なぜ西にある林試の森公園があるのだろう、との疑問も湧くが、ほとんどの参加者が歩くのでそれに従う。 |
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突き当りで右折、小路を進む
さすがに道なりに歩くと西にどんどん向かうため、右折して小路に入る。入ってすぐに左折して北に向かう道があり、多くの人が進むが、道を間違えたのでは、と思い、地元の人に大鳥神社に向かう道を聞いた所、直進して目黒不動脇の坂を上ることが分かった。
直進すると突き当りに目黒不動尊があった。 |
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目黒不動尊 西南角から三折坂を上る
三つに折れ曲がった形状から三折坂と呼ばれるようになった。また、目黒不動への参詣者が、この坂をおりていくので、「御降坂」とよんだともいわれる。 |
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目黒不動尊 西南角から三折坂を上る
右には目黒不動尊がある。 |
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目黒 目黒不動尊(瀧泉寺/恵比寿神) 本堂
工事で閉鎖されている参道の階段を上ると本堂に着く。 |
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目黒区立 不動公園
ここでガイドマップとの対応が分かった。コース設定は参道の階段を上り、本堂横から三折坂の坂上に出て不動公園横を歩くことであった。しかし、階段が閉鎖されているので本堂に寄らず、狭い三折坂を上ると思わずに道なりに林試の森公園の方に進んだのである。 |
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目黒区立 目黒三中前を北上
ガイドマップ通りである。 |
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突き当りを右折、目黒通りへ
ここで林試の森公園から道を間違えたなりに北上した人たちが左から合流する。 |
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目黒 目黒通り 大鳥神社 |
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目黒 大鳥神社
この神社は、日本武尊の東征にゆかりがあるといわれるこの地に、大同元年(806)に創建された区内最古の神社です。江戸地図として古いものとされる「長禄江戸図」に書かれている古江戸9社の1つで、目黒村の総鎮守でもありました。祭神は日本武尊を主神とし国常立尊と弟橘媛命を合祀しています。
毎年11月に開かれる酉の市は、東京では古いものの1つといわれており、現在も都内では有数の賑わいを見せています。この市のいわれは日本書紀に「十月己酉に日本武尊を遣わして、熊襲を撃つ」とあり、尊の出発日が酉の日であったことから、おこったと伝えられています。 |
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大鳥神社から出て左折、山手通りへ |
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山手通り 大鳥神社交差点で右折、目黒通りへ
大鳥神社は交差点の西南の角にあり、左(西)の目黒通りから入って南の大鳥居から出て北上したことになる。 |