目黒〜大円寺〜海福寺〜羅漢寺〜目黒不動尊
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JR主催 東京百景ウォーク 第5回 目黒の寺社と新しい品川 受付風景(目黒駅) JR主催 東京百景ウォーク 第5回 目黒の寺社と新しい品川 受付風景(目黒駅) 

目黒〜目黒不動尊〜武蔵小山〜戸越銀座〜ゲートシティ大崎〜御殿山〜品川(総行程10.8km)
JR 目黒駅 JR 目黒駅 
目黒 行人坂 目黒 行人坂 

目黒駅西口から大円寺、目黒雅叙園、目黒川に至る急坂で、特に登りに苦労する人が多い。寛永の頃, 出羽の湯殿山の行人が, このあたりに大日如来堂を建立、次第に多くの行人が集まり住むようになったので, 行人坂と呼ばれるようになったといわれている。
大円寺 大円寺 

江戸時代の寛永年間(1624〜1644年)に、出羽湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を祀って祈願の道場を開いたのが始めと言われる。大黒天は、江戸三大黒の一つ。
大円寺 大円寺 
大円寺 大円寺 
大円寺 石仏群 大円寺 石仏群 

明和9年(1772年)の大火の火元が大円寺であったことから、天明(1781〜1789年)に境内に焼死した人を供養するため、五百羅漢を建立した。
大円寺 石仏群 大円寺 石仏群 
大円寺 行人坂 敷石造道供養碑 大円寺 行人坂 敷石造道供養碑 

施主は西運で、元禄16年(1703年)と記されている。
大円寺 行人坂 敷石造道供養碑 大円寺 行人坂 敷石造道供養碑 
目黒雅叙園 目黒雅叙園 

アニメ「千と千尋の神隠し」の舞台のモデル、とも言われるほど時代がかった結婚式場である。入口には八百屋お七所縁の井戸がある。
目黒川 太鼓橋 目黒川 太鼓橋 

約250年前に大喰上人が造り始めた後、八丁堀の商人達が資材を出し合い、宝暦14年(1764年)から6年掛けて完成させた。
目黒川 太鼓橋 目黒川 太鼓橋 
山手通りに沿って五反田方向へ 山手通りに沿って五反田方向へ。 
松風羅漢 松風羅漢 

山手通りから羅漢寺を経て、目黒不動尊に行く入口にある。松風禅師は、元禄年中に536体の羅漢像を彫り、本所五ツ目に五百羅漢寺を築いた。明治42年に下目黒に移転、荒廃したが、昭和56年に再興した。その記念に松風羅漢像を作った。
松風羅漢 松風羅漢 
海福寺 海福寺 

コース図では紹介されていないため、訪れる人はいなかった。入口の四脚門や、文化4年(1807年)8月に永代橋が崩落、440名が溺死した人々を供養する永代橋崩落横死者供養塔など、見るべきものが多い。
五百羅漢寺 五百羅漢寺 
松風羅漢の寺であるが、拝観料を取られるため、素通りする人が多かった。
五百羅漢寺 五百羅漢寺 
目黒不動尊 目黒不動尊 

大同3年(808年)に慈覚大師が開創、徳川家光が堂塔伽藍を造営した。目黒不動尊は何度も訪れているが、青木昆陽(甘藷先生)の墓がどうしても分からなかった。今回やっと見つけることが出来た。
目黒不動尊 目黒不動尊 
目黒不動尊 目黒不動尊 
目黒不動尊 青木昆陽(甘藷先生)の墓 目黒不動尊 青木昆陽(甘藷先生)の墓 

青木昆陽は江戸中期の儒者で、徳川吉宗の命により蘭学を学び、救荒作物として甘藷の栽培を奨励したため、甘藷先生と呼ばれた。
墓は本堂裏の細道を右に行き、不動尊の裏墓地にある。墓地が離れているため、この細道との関係が分かり難い。
目黒不動尊 青木昆陽(甘藷先生)の墓 目黒不動尊 青木昆陽(甘藷先生)の墓 
目黒不動尊 青木昆陽(甘藷先生)の墓 目黒不動尊 青木昆陽(甘藷先生)の墓 
目黒不動尊 白井権八と小紫の比翼塚 目黒不動尊 白井権八と小紫の比翼塚 

目黒不動尊の仁王門前にある。白井権八は鳥取藩士で、同僚を切って出奔、吉原の遊女小紫となじみになったが、金に困り辻斬りなどをして処刑された。侠客幡随院長兵衛と結び付けられ、歌舞伎で脚色された。小紫は、白井権八の処刑後、その墓前で自害したことから、比翼塚が作られた。
目黒不動尊 白井権八と小紫の比翼塚 目黒不動尊 白井権八と小紫の比翼塚 

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