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水天宮〜甘酒横丁〜人形町交差点

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水天宮前交差点から人形町通りを北上 水天宮前交差点から人形町通りを北上 

半蔵門線水天宮前駅を出て、向かい角に水天宮がある水天宮前交差点から歩き出す。
第 8回 粋な下町文化が根づく街、深川を歩くH230420 スタート 半蔵門線 水天宮前駅 第 8回 粋な下町文化が根づく街、深川を歩くH230420
スタート 半蔵門線 水天宮前駅 


水天宮〜人形町通り〜清洲橋通り〜新大橋通り〜萬年橋〜清澄通り〜富岡八幡宮〜佃大橋〜新大橋通り〜湊橋〜水天宮(総行程 9km)

【撮影記録】
平成23年 4月 20日 快晴 後 晴れ
10:20〜12:50 14,400歩(概算 10.1km)

始めは少し肌寒いが気持ち良いほどの快晴だったが、暖かくなるにつれ曇ってきた。深川の芭蕉記念館は久しぶりだったが、ついでに寄った大嶽部屋・大鵬道場は取り壊されてマンション建築中だった。野球賭博の結果とはいえ、哀れさを感じる。
富岡八幡宮の西口は鳥居破損で入れず、久しぶりに大鳥居から入ったので徹底的に撮影した。
人形町通り からくり櫓(江戸の賑い 人形町通り) 人形町通り からくり櫓(江戸の賑い 人形町通り) 

人形焼の重盛の並びで、人形町通りを歩き始めてすぐの右手にある。
人形町通り からくり櫓(江戸の賑い 人形町通り) 人形町通り からくり櫓(江戸の賑い 人形町通り) 
人形町通り からくり櫓(江戸の賑い 人形町通り) 人形町通り からくり櫓(江戸の賑い 人形町通り) 
人形町通り 甘酒横丁交差点 人形町通り 甘酒横丁交差点 
人形町通り 甘酒横丁 人形町通り 甘酒横丁 

水天宮で有名な横丁で、途中の浜町緑道には弁慶像があり、そこから明治座通りとなって浜町の明治座前に出る。

明治の初め頃にこの横丁の入口の南側に尾張屋という甘酒屋があったことから昔は「甘酒屋横丁」と呼ばれていた。当時の横丁は今より南に位置しており、道幅も狭い小路であった。
甘酒横丁と言っても特に変わった商店街ではなく、清洲橋通りから入ると始めは明治座通りとも言う。
人形町通り 甘酒横丁交差点 人形町通り 甘酒横丁交差点 

交差点をを戻った角に親子丼で有名な「玉ひで」があり、手前に日比谷線の人形町駅がある。
人形町通り 蛎殼銀座跡 人形町通り 蛎殼銀座跡 

 銀座とは江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所と、通用銀貨の検査や銀地金の購入などを扱う銀座役所を総称した組織でした。そしてその経営は幕府の直営ではなく、御用達町人に委託しました。
 江戸の銀座は慶長十七年(一六一二)に今の銀座二丁目の場所に置かれ、その百八十八年後の寛政十二年(一八〇〇)六月に、寛政改革の一つである銀座制度の大改正のため一旦廃止されました。
 その年の十一月、改めてこの人形町の場所に幕府直営の度合いを強めた銀座が再発足しました。
 当時この付近の地名が蛎殼町だったため、この銀座は人々から「蛎殼銀座」と呼ばれ、明治二年(一八六九)に新政府の造幣局が設置されるまでの六十九年間存続しました。
人形町通り からくり櫓(は組) 人形町通り からくり櫓(は組) 

玉ひでの並びで、甘酒横丁交差点の少し先にある櫓である。ガラスの箱の中には、は組の纏を持った火消人足がいる。
人形町通り からくり櫓(は組) 人形町通り からくり櫓(は組) 
人形町通り からくり櫓(は組) 人形町通り からくり櫓(は組) 
人形町通り 人形町の由来 人形町通り 人形町の由来 

江戸が開府され20年ほど過ぎ、現在の町交差点北側一帯には江戸唯一の歓楽街が在り大変な賑わいでした。大芝居の中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また人形操り芝居、浄瑠璃芝居、見世物小屋が軒を並べ、それに携わる多くの人形師達がこの町に住んでいたことから、江戸時代より俗に「人形丁通り」と呼ばれ後に町名となりました。
正式に「人形町」という町名がついたのは関東大震災以降の区画整理で昭和8年になってからです。
人形町通り 人形町の由来 人形町通り 人形町の由来 
人形町通り 人形町交差点で右折、金座通りへ 人形町通り 人形町交差点で右折、金座通りへ 
人形町通り 人形町交差点 玄冶店跡 人形町通り 人形町交差点 玄冶店跡の碑 

人形町交差点の北東角にあるが、大型トラックが停まっていて撮りにくかった。
人形町通り 人形町交差点 玄冶店跡 人形町通り 人形町交差点 玄冶店跡 
人形町通り 人形町交差点 玄冶店跡 人形町通り 人形町交差点 玄冶店跡 

 江戸時代初期、新和泉町(人形町三丁目)のこの辺りは、幕府の医師であった岡本玄冶の拝領屋敷があったことから「玄冶店」と呼ばれていました。
 岡本玄冶(一五八七〜一六四五)は京都に生まれ、医術を曲直瀬道三(玄朔)に学びました。元和九年(一六二三)、京都に上洛中の徳川家光が江戸へ帰る際に侍医として招かれ、幕府の医師となりました。後に法眼から法印に叙せられて啓迪院と号しました。
 三代将軍家光は岡本玄冶を重用し、数多くの功があったことが記録に残されています。『寛政重修諸家譜』には、寛永十年(一六三三)、家光が大病を病んだ時、諸医術をつくしても効験がなかった病を玄冶が薬を奉り平癒したとあり、この功により白銀二百枚を賜ったことが記されています。
 岡本玄冶の拝領屋敷は『寛保沽券図』によると、「表京間六拾間 裏行京間二十五間 坪数千五百坪」とあります。当地にはその後、九代にわたって子孫が住み、明治維新で地所を奉還したと伝えられています。玄冶は正保二年(ー六四五)に没し、広尾の祥雲寺(渋谷区)に葬られました。   玄冶店の名は、歌舞伎狂言作者の三代瀬川如皐が脚色し、嘉永六年(一八五三)に中村座で初演された「与話情浮名横櫛」の「源氏店(玄冶店)の場」のー幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となり、その名が広く世に知られるようになりました。



 
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