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行幸通り 和田倉門交差点
右手には丸ビルが聳え立つ。 |
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行幸通り 東京海上日動ビル本館、新丸ビル |
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行幸通り 丸の内 町名由来
江戸時代このかいわいは、江戸城の内堀と外堀に囲まれていました。丸の内とは、堀で囲まれた内側という意味合いを持った名で、大名屋敷が立ち並んでいました。
明治維新後、大名屋敷が取り払われてから、周辺は一気にさびれていきます。屋敷跡が陸軍の練兵場などの軍用施設になり、街としての新しい開発が行われなかったためです。明治の文学者田山花袋は、明治二十年(1887)ごろの丸の内を次のように描写しています。「丸の内は、いやに陰気で、さびしい、荒涼とした、むしろ衰退した気分が満ちわたっていて、宮城も奥深く雲の中に鎖されているように思われた」 (『東京の三十年』)
この丸の内一帯が大きく変貌をとげたのは明治二十三年(1890)、陸軍が一帯を三菱社に払い下げてからです。以後、三菱は大規模な開発にのりだし、地域内の道路整備を行ったうえで、次々と洋風の建築物を建てました。赤レンガの建築物を中心としたそれらの建物が、ロンドンの景観を思わせたことから、一帯は「一丁倫敦」ともてはやされるようになりました。
さらに大正三年(1914)には東京駅も完成。第一次世界大戦による空前の好景気が追い風となり、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長しました。
そのような歴史をもったこの界隈が、正式に「まるのうち」と呼ばれるようになったのは昭和四年(1929)、丸ノ内一〜三丁目という町名が誕生してからのことです。そして昭和四十五年(1970)、町名の表記が丸ノ内から丸の内と変更され、現在に至っています。 |
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行幸通り 東京駅中央口交差点 左折して大名小路へ
行幸通りは和田倉門交差点からこの交差点まで、東京駅改装工事に資材置き場などに使われており、左の新丸ビルと、右手の丸ビルとの間の歩道は廃止されている。横断するためには地下連絡通路が利用できる。 |
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行幸通り 東京駅中央口交差点 左折して大名小路へ
東京駅の改装工事は平成23年完成の予定で、駅前広場も一新するとのことである。 |
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行幸通り 東京駅中央口交差点 左折して大名小路へ
右手に東京駅があり、中央左右の白い線が行幸通りである。 |
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大名小路 新丸ビル
この一帯には江戸時代親藩や譜代大名の屋敷が立ち並んでいたため、大名小路と呼ばれている。
新丸ビルを始発とする丸の内シャトルは、丸の内から日比谷を巡回する無料バスである。周辺の企業が費用負担し、大型観光バスで利用者も多い。 |
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大名小路 日本工業倶楽部会館
日本工業倶楽部会館は、新丸ビルの北側に建つビルである。 |
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大名小路 日本工業倶楽部会館 |
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大名小路 大手町駅前交差点で永代通りを渡る
右のビルは大手町野村ビルである。時計台などは改装前の旧野村ビルの名残である。 |
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大名小路 東京サンケイビル交差点で右折、区道104号へ
左に東京サンケイビル、右に逓信総合博物館がある。千代田区の区道104号は左折すると日比谷通りとの交差点で読売新聞社本社があり、更に進むと平将門の首塚を経て内堀通りに至る。道路の通称はなく、各交差点も名称がないので説明に困る道路である。 |
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大名小路 東京サンケイビル交差点で右折、区道104号へ |
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大名小路 東京サンケイビル交差点で右折、区道104号へ
いちょう並木が黄葉してきれいな大名小路から、右折して逓信総合博物館前を歩く。 |
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区道104号 逓信総合博物館 |
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区道104号 JRガード下を東進 |
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区道104号 常盤橋公園 |
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常盤橋公園 常盤橋門
常盤橋門は江戸城タト郭の正門として奥州道に通じ、敵の侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にする為、大きな切石で積み上げられた「コ」の字型の枡形門である。又、天正18年(1590)架橋といわれる旧常盤橋は、両国橋がかかるまで江戸−の大橋であった。現在の石橋は門跡の石等も使い、明治10年に改架したもので、洋式石橋の創始といわれている。この常盤橋の名称は、家光の時代「色かへぬ松によそへてあづま路の常磐の橋にかかる藤なみ」の歌に因みつけられたものといわれる。 |
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常盤橋公園 常盤橋門 |
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常盤橋公園 渋沢栄一像 |