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産業道路、首都高横羽線を東進、右折して入船公園へ |
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産業道路、首都高横羽線を東進、右折して入船公園へ |
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入船公園 つるみ臨海フェスティバル会場 |
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入船公園 つるみ臨海フェスティバル会場 |
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入船公園 つるみ臨海フェスティバル会場 |
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入船橋交差点で産業道路、首都高横羽線を渡り、ゴム通りへ
入船公園の東の端が入船橋交差点で、産業道路を渡り、ゴム通りを北上する。
ゴム通りとは戦前に現横浜ゴムの工場があったためで、戦災で大打撃を受けてからは再建されなかった。 |
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ゴム通り 入船小学校入口交差点で左折、仲通り商店街へ |
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仲通り商店街 入船小学校 |
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仲通り商店街 おきなわ物産センター |
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仲通り商店街 パチンコ店角で右折、潮田銀座へ |
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潮田銀座を北上
各地にある銀座ではあるが、なぜ「銀座」なのか分からない街である。 |
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潮田銀座 潮田交番前交差点
交番は交差点の右角にある。 |
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潮田銀座 潮田神社駐車場角で左折
潮田交番前交差点のすぐ先の木立であるが、見落としやすい。 |
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潮田神社
●潮田神社
日本武尊が東征の途中、相模から海上を上総へ向かわれた時、征途の安全、御守護を祈願して、海岸老松のうっそうとした潮田の地に小祠を奉斎したことに由来すると伝えられています。 |
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潮田神社
御由緒
当社は、大正初期、京浜工業地帯の一大発展に伴い、耕地整理・区画整理による街造りのため、西潮田村の御嶽社と東潮田村の杉山社を合併し、大正九年、潮田神社と改称して潮田地区の中心地点である現在地に鎮座されました。社伝に依れば、景行天皇四十年、日本武尊が東夷征伐の航海の途中、旧西潮田村の古杉老松の鬱蒼たる地に小祠を建て、国土の神「国常立尊」、「豊雲野命」、「国狭槌命」を奉斎し、征途の無事安全を祈願したことが始まりと伝えられています。
中世に至り、潮田村は小田原北条氏の領地に属し、北条氏の信仰崇敬に殊に厚いものがありました。正親天皇の御世、永禄の頃太田道灌の曾孫太田新六郎康資の領地神社として、たびたび修復されたことが、東潮田村の杉山社に残る御神鏡からうかがうことができます。
また、正保年間に至り、地頭松下孫十郎が幕府の命により社殿を改築し、寛文十年、幕府社領一段四畝二十歩を寄進したことが御嶽大権現と称された西潮田村の御嶽社の棟札、鳥居等にのこされています。
由来、東のお宮、西のお宮と親しまれ、特に土地が海浜であったため、房総漁民船が大漁祈願に立ち寄るなど、潮田村及び遠近の村里沿岸一帯の鎮護となりました。 |
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潮田神社 |
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潮田神社 社殿 |
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潮田神社 海翁石
太田蜀山人 調布日記 文化五年 十二月廿八日
鶴見橋の前なる左の小道より田面をゆく。
右に富士見えて、風景よし。右は浅羽村、左は潮田村なり。ここに木立ものふりたる小祠あり、上の宮と云ふ。杉山大明神をまつるなり。石の手水鉢ありて、海翁石の字あり。
宝暦四戌年正月三日、南潮田若者中と彫れり。
此石は難船の者取落したるを此所に奉納せしなり。
又ゆきゆきて、右に伊勢の宮の森あり。左に白山の小祠あり。潮田村の里正のもとにいこふ。わびしきさまなり。浜辺に出てみんといへば、里人案内して行く。右にーむら茂れる森あり。何の神を祭ると問へば、貴船大明神といふも めずらし。又稲荷の社あり。松かげに筵しかせて、かれ飯あさるもめづらかなり。
遠くは三浦三崎の山青く、近くは本牧十二天弁天のあたりかすみてみゆ。右のかたに山ありて、ふもとに白壁の人家見ゆるは金川の台にして、生麦村につらなれり。帆かけし船のゆきかふさま、目もあやなり。
鶴見川を船にて渡り云々 |
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潮田神社 海翁石 |