|
北千住駅前通り(きたろーど1010) 千住二丁目交差点で右折、旧日光街道千住宿 宿場町通りへ
この交差点の左側に松尾芭蕉の奥の細道の記念碑などが並ぶ千住大橋まで、旧日光街道千住宿の遺構が続く。 |
|
旧日光街道千住宿 宿場町通り
右折してすぐのゲートの左のビルの裏に「千住本陣跡とその周辺」の案内がある。 |
|
旧日光街道千住宿 宿場町通り 千住本陣跡とその周辺
この案内板がある小道は千住二丁目と千住三丁目の境界をなす通りで北千住駅前通りが全通する昭和初期迄はかなり重要な通りでした。
●千住本陣跡(緑の部分) この案内板の北側一帯が本陣(大名等専用の宿屋)で千住宿ではここ一ヶ所だけでした。敷地は三百六十一坪、建坪百二十坪であったと記録されています。 ●明治天皇行在所跡(青の付近) 明治九年の明治天皇の東北御巡行の砌。この地に泊られ皇后陛下御一行と送別の宴を当時千住最大の旅篭であった中田屋の別館で催されました。そのためそこを行在所(天皇陛下が一時的に滞在する所)といいました。 ●千住見番跡(赤の付近) 江戸時代から千住宿には遊女(食売女)を置いていい旅篭が五十軒ほどありました。明治にこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。花街が千住柳町に移転させられた大正八年以降も昭和十八年迄営業していたといいます。そのためこの通りを「見番横丁」といっていたそうです。 ●丁目境の筋違(赤線枠の部分) 各丁目毎にその境界は街道に対して出入をつけてぃたのですが一〜ニ丁目、三〜四丁目の境界が拡幅等でわからなくなってしまったのに対し、ここは旧街道に対してニ丁目側と三丁目側の正面が違うのがはっきり見られます。 |
|
旧日光街道千住宿 宿場町通りを北上
道路を飾る幟には千住宿から先の各街道の宿場を紹介している。
写真では次のように書かれている。
会津西街道(福島県下郷町)
大内宿 千住より五十八里
江戸時代へタイムスリップ
|
|
旧日光街道千住宿 宿場町通り 千住宿 高札場 由来
私たちの街 千住が宿場となって栄えたのは、慶長二年(一五九七)人馬引継駅として以来のことだといわれています。 江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まった、といっても過言でありません。 特に寛永二年(一六二五)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、約四百年を経て今日に至っております。 このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていました。 |
|
旧日光街道千住宿 宿場町通り 千住宿 高札場 由来 |
|
旧日光街道千住宿 宿場町通り 横山家住宅
宿場町の名残として伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。伝馬屋敷は、街道に面して間口が広く、奥行が深い。戸口は、一段下げて造るのが特徴である。それは、お客様をお迎えする心がけの現れという。 敷地は、間口が十三間、奥行が五十六間で鰻の寝床のように長い。 横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋を営んでいた。 現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和十一年に改修が行われている。間口が九間、奥行が十五間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建である。 広い土間、商家の書院造りと言われる帳場二階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。 上野の戦いで、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷痕や^戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。 |
|
旧日光街道千住宿 宿場町通り 横山家住宅
文字がかすれ、非常に読みにくい。 |
|
旧日光街道千住宿 宿場町通り 横山家の蔵(非公開)
代々「松屋」を屋号とした地漉き紙問屋横山家には以前は外蔵が二棟と内蔵・紙蔵・米蔵が各々一棟あったそうです。 今でも敷地内では外蔵がー棟活用されています。 現存する外蔵は間口2間×奥行き3問半の木骨土蔵造りです。 火事の際には開口部を閉め隙間を目張りをするため、地面に穴を掘り壁土を常備し、いつでも使えるよう時々捏ねていました。 |
|
旧日光街道千住宿 宿場町通りを北上
新しく整備された道で、左折するとまなびピア21角で日光街道(国道4号))に出る。 |
|
旧日光街道千住宿 宿場町通り 旧街道案内
次のように書かれている。
北へ 旧日光道中
東へ 旧水戸佐倉道 |
|
旧日光街道千住宿 宿場町通り 千住名倉医院
名倉医院は江戸時代以来、骨つぎといえば名倉、名倉といえば骨つぎの代名詞になるほど、関東一円に知られた医療機関であった。下妻道に面し、旧日光道中や水戸佐倉道分岐点を間近にして便がよかったので駕籠や車で運ばれてくる骨折患者でひしめいていたという。門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの溜り場であった。
名倉家は、秩父庄司畠山氏の出で享保年間(一七一六〜三六)頃千住に移り、明和年間(一七六四〜七ニ)に「骨つぎ名倉」を開業したと伝わる。
現在、江戸時代から昭和中期まで盛業時の医院の建物が保存されている。昭和五十九年足立区登録記念物(史跡)となった。
かつて名倉医院の周辺には、患者が宿泊して加療できる金町屋、万屋、成田屋、大原屋、柳屋等の下宿屋があって、その主人が名倉医院で治療に当たる医師及び接骨師を兼ねていた。 |
|
旧日光街道千住宿 宿場町通り 千住名倉医院 |
|
旧日光街道千住宿 宿場町通り 千住名倉医院 |
|
旧日光街道千住宿 宿場町通り 千住名倉医院 |