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東京メトロ 銀座線 溜池山王駅
【撮影記録】
平成24年 5月 27日 晴れ
10:10〜12:40 13,500歩(概算 10.1km 地図上 9.8km)
銀座線 溜池山王〜浅草
営業距離 9.4km 駅数 14
最高気温27℃と暑かったが、湿度はそれほどでもなく、歩き易かった。銀座界隈は日枝神社の山王祭の準備が行われており、神田明神の氏子である三越などの北方とは対照的だった。しかし、神田では湯島天神の例大祭の氏子神輿渡御が行われていた。
浅草は東京スカイツリー見物の流れで賑わっていた。 |
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外堀通り 六本木通りと交差する溜池交差点 |
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外堀通り 溜池交差点 溜池発祥の碑
溜池は江戸時代のはじめ、江戸城の防備を兼ねた外堀兼用の上水源として作られ水道の発祥地として作られ水道の発祥地ともなり、 徳川秀忠時代には鯉、鮒を放し蓮を植えて上野の不忍池に匹敵すろ江戸の名所となった。徳川家光は遊泳したとも伝えられ、江戸後期には日枝神社より赤坂四丁目に通じる料金を取った銭取橋が架設され「麦とろ家」数軒と出店で、にぎわったと云われる。
明治八年より埋め立てに着手し四十四年に完成したが、明治二十一年十ニ月に赤坂溜池町が創立され、明治四十二年に市電が開通し、大正十年五月に正式な町会として溜池町会が発足し、溜池角の小松ビルは元は演技座と云う芝居館として人気を煽り東京オリンピック以後はビル街として発展し、町会も「赤坂溜池町会」とと改称し今日に到り、地下鉄新駅「溜池山王駅」の開通を記念し建立した。 |
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外堀通り 特許庁前交差点 |
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外堀通り 霞が関ビル
日本で最初の高層ビルとして有名で、新橋駅方面から見ると外堀通りの巨大な壁に見えた。展望台は東京タワーに続く人気スポットだったが、今では当たり前の高層ビルとなって話題にもならない。 |
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外堀通り 霞が関ビル前 工部大学校阯碑
霞が関コモンゲートの一帯、すなわち江戸時代の虎門内延岡藩邸を中心とした地城は、日本の工学発祥の地です。明治六年(一八七三)工業分野における日本人の人材育成を目的として工学校(工学寮内に設置)が開校し、同十年(一八七七)には工学寮がエ部大学校と改称されました。エ部大学校では、土木・機械・建築などの学科がイギリスをはじめとする諸外国から招聘された教師によって教授されていました。しかし同校は明治十九年(一八八六)に帝国大学と合併してその工科大学となりました。現在の東京大学工学部の前身です。工部大学校の移転後、同校校地及び建物は、帝室博物館、東京女学館などが使用しました。しかし、大正十二年(一九二三)関東大震災で工部大学校以来使用されてきた建物も崩壊してしまいました。その後、この土地には会計検査院などの建物が建設されたため、当時の面影が無くなってしまいました。そこでエ部大学校出身者たちは、かつてこの地に同大学校があったことを記念して、昭和十四年(一九三九)「エ部大学校阯碑」を建設しました。裏面碑文によれば、本碑の素材には関東大震災の際崩壊した建造物の煉瓦なとが用いられています。「エ部大学校阯碑」は、千代田区内において日本最初の工業技術教育機関が設置された場所を示しつつ、その歴史を後世に語りかけてくれます。さらに、震災て倒壊した建造物の廃材を素材としていることで、震災によって大きな打撃を受けた千代田区の歴史をも伝えてくれているのです。 |
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外堀通り 霞が関ビル前 工部大学校阯碑 |
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外堀通り 霞が関ビル |
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東京メトロ 銀座線 虎ノ門駅 |
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外堀通り 虎ノ門交差点で桜田通りを渡る |
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外堀通り 虎ノ門交差点 虎の小像 |
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外堀通り 虎ノ門交差点 虎の小像
江戸城を守る外郭門のひとつであった虎御門は、江戸時代初期までは遠浅の海(日比谷入江)に面していた。
碑文は摩滅していて読めないが、虎ノ門の歴史などが書かれている。 |
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外堀通り 西新橋一丁目交差点で愛宕通りを渡る |
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外堀通り 西新橋交差点で日比谷通りを渡る |
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外堀通り 新橋駅横 山手線ガード前交差点 |
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東京メトロ 銀座線 新橋駅 |
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外堀通り 新橋交差点で左折、中央通り(国道15号)へ
交差点を渡り右手に進むと汐留シオサイトである。 |
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外堀通り 新橋交差点で左折、中央通り(国道15号)へ
交差点の右は第一京浜(国道15号)で、左は中央通りと改称する。 |