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祝田通りを渡り、日比谷公園 霞門へ |
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日比谷公園 園内案内
日比谷公園の案内図で、四つの大きな道路で囲まれている。上辺は日比谷通り、下辺が祝田通り、右辺が国会通り、左辺が晴海通りである。
現在地は下中央の霞門で、すぐ上の雲形池を通り、大噴水がある第二花壇を経て反対側の日比谷門から出る。 |
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日比谷公園 雲形池 鶴の噴水
冬になると氷柱が噴水に付いて絵になる。 |
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日比谷公園 松本楼
40年ほど前、70年安保の全共闘華やかなりし頃、乱闘の煽りを受けて焼け落ちたレストランである。 |
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日比谷公園 大噴水 |
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日比谷公園 大噴水 |
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日比谷公園 日比谷門 日比谷通りを渡リ、みゆき通りへ
左が日生劇場、右が帝国ホテルで、左後方の尖塔があるビルは東京宝塚劇場である。 |
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みゆき通り 日生劇場、帝国ホテルの間を歩く |
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みゆき通り 東京宝塚劇場 |
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みゆき通り JRのガード下を進む |
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みゆき通り ガードをくぐり抜けて右折すると銀座コリドー通り |
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みゆき通りを東進 |
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みゆき通り 泰明小学校 北村透谷・島崎藤村記念碑
この記念碑の説明が左の壁際に立っているが、木が邪魔して読むことは不可能で、写真を撮ることも困難だった。 |
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みゆき通り 泰明小学校 北村透谷・島崎藤村記念碑
泰明小学校は明治十一年(一八七八)六月に開校され北村透谷と島崎藤村はその初期の卒業生でした。
北村透谷(一八六八〜一八九四)は、現在の神奈川県小田原市に生まれ、明治十四年に家族とともに京橋区弥左衛門町(現在の銀座四丁目)に転居し、翌年卒業するまで泰明小学校に通いました。その後、自由民権運動に惹かれて政治運動を志しましたが、後に文筆活動に転じ文芸評論家・詩人として活躍しました。明治二十六年雑誌『文学界』に参加した透谷は、文芸における自由主義を唱え、近代浪漫主義文学の開拓者といわれました。
島崎藤村(一八七二〜一九四三)は、中山道馬籠宿(現在の岐阜県中津川市)に生まれ、明治十四年に上京し、京橋区鎗屋町(現在の銀座三・四丁目付近)の姉の嫁先から泰明小学校に通学しました。その後、姉夫婦が帰郷したことにより同郷人の家に寄寓し、明治十七年に卒業しました。明治学院在学中に文学への関心を深めた藤村は、『文学界』の活動を通して透谷から深い影響を受けました。著作に『若菜集』・『春』・『夜明け前』などがあり、中でも『破戒』は自然主義文学の先駆と言われています。 |
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みゆき通り 泰明小学校 |
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みゆき通り 泰明小学校 「みゆき通りと門扉」
この通りは朋治天皇が宮城より海軍兵学校に御行幸された折にお通りになられたことからみゆき通りと呼称されるようになったといわれている。また門扉は、その時代南フランスの貴族の館で使用されていたものである。 |
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みゆき通り 泰明小学校 「東京都選定歴史的建造物 中央区立泰明小学校」
泰明小学校は明治11年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造の校舎として建て替えられたものである。
表現主義と呼ばれる建築様式の建物で、カーブを描く壁面やアーチ窓等を使った外観に特徴がある。L字型校舎の南端に位置する玄関部分には、柱や入口庇等に個性的な装飾が集中して施され、建物の顔となっている。これらの意匠は、震災復興期につくられた他の小学校ではあまり見受けられない個性的なものである。また、校庭に面した側の窓は他の学校よりも大きくとられ、開放的なな印象を与えている。
蔦のからまる校舎は銀座のシンボルとして人々に親しまれており、今なお往時の景観を残している。 |
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みゆき通り 銀座西5丁目交差点で左折、西銀座通り(外堀通り)へ |
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西銀座通り(外堀通り) 数寄屋橋交差点 ソニービル |
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西銀座通り(外堀通り) 数寄屋橋交差点 |
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西銀座通り(外堀通り) 数寄屋橋交差点 銀座マリオン |
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東京メトロ 丸ノ内線 銀座駅 |