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伝通院 山門
伝通院の山門は長らく工事が行われていたが、今年(平成24年)の3月に落慶法要が行われた。
白木造りがきれいな反面、重厚さがかける気もした。 |
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伝通院 処静院跡の石柱
この石柱は、伝通院の塔頭の一つで伝通院前の福聚院北側にあった処静院の前に建っていたものである。
石柱の文字は、修行と戒律のきびしさを伝えている。
処静院は、その後、廃寺となった。
文久三年(一八六三)二月四日、幕末の治安維持を目的とした組織−浪士隊の結成大会が処静院で行なわれた。
山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢二五〇人。その後、浪士隊を離れて、新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた。
一行は文久三年二月八日、京都へと発った。年号が明治と改まる五年前のことであった。
山門前には多くの案内板が立てられている。 |
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伝通院 本堂
徳川家康の生母お大を葬った寺で、豊臣秀頼の妻千姫など徳川家所縁の女性の墓がある。新撰組の前身浪士組を結成し、後に暗殺された清岡八郎や、詩人の佐藤春夫などが眠る。 |
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伝通院 傅通院の墓所
当山は、応永二十二年(一四一五)、浄土宗第七祖了誉聖冏上人が開山されました。当時は小石川極楽水(小石川四丁目)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名て開創されました。
それから約二百年後の慶長七年(一六〇二)八月二十九日、徳川家康公の生母於大の方か七十五歳、伏見城て逝去。その法名を「傅通院殿」と号し、この寿経寺を菩提寺としたことから傅通院と呼ばれるようになり、以来千姫(天樹院殿 二代将軍徳川秀忠公・於江の方の長女)や孝子の方(三代将軍徳川家光公の正室)、於奈津の方、初姫など多くの徳川家の子女達が埋葬されるようになりました。
当山には開創六百年におよぶ長い歴史の側面を物語る著名な方々のお墓が現存しております。 |
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伝通院 徳川家康生母 於大の墓
享禄元年ー慶長七年(一五二八ー一六〇二)。徳川家康の生母。三河(愛知県)刈屋の城主・水野忠政の娘。天文一〇年(一五四一)岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年に家康を生む。
後に離婚して阿古屋城主・久松俊勝に再婚 するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。
法名、伝通院蓉誉光岳智香大禅定尼にちなみ、この寺の通り名を「伝通院」とした。 |
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伝通院 徳川家康生母 於大の墓
「お」大が「於」大に変更になっている。 |
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伝通院 千姫の墓
慶長二年〜寛文六年(一五九七〜一六六六)。ニ代将軍秀忠の娘。
慶長八年(一六〇三)幼少の身で豊臣秀頼に嫁し、大坂城にはいる。
元和元年(一六一五)城を出て翌年桑名城主・本多忠政の子、忠刻と再婚するも死別とともに天樹院と号して江戸に帰り竹橋に住む。 |
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伝通院 千姫の墓 |
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伝通院 徳川家所縁の墓
案内板がないので誰の墓なのか分からないが、大きな墓が並ぶ。 |
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伝通院 孝子の墓
慶長七年〜延宝二年(一六〇ニ〜一六七四)。孝子は三代将軍徳川家光の正室。
前関白鷹司信房の娘、元和九年(一六二三)京都から江戸に下り、江戸城西の丸に入る。寛永二年(一六二五)家光と結婚するが、公家出身で武家の生活になじめないまま七十三歳で没す。 |
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伝通院 孝子の墓 |
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伝通院 徳川家所縁の墓
中には「童女」と書かれたものもある。 |