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職安通り 団子坂
この坂はいつも泥んこで、歩くたびにまるで泥だんごのようになったという。嘉永七年(一八五四)の『江戸切絵図』には「馬ノ首ダンゴザカト云」とある。 |
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職安通り 団子坂 |
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職安通り 東京女子医大
九段坂下交差点から飯田橋に向かう目白通り沿いに、東京女子医科大学発祥の地碑がある。
東京女子医大は早稲田大学に近いこともあり、慶応に唯一勝てない医学部を持つため、早稲田から統合を提案したが、すげなく断られた、と言う話があった。 |
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職安通り 若松町交差点で右折、大久保通りへ |
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職安通り 若松町交差点で右折、大久保通りへ |
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職安通り 若松町交差点で右折、大久保通りへ |
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都営 大江戸線 牛込柳町駅 |
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都営 大江戸線 牛込神楽坂駅 |
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大久保通り 神楽坂上交差点で早稲田通りを渡る
右折すると神楽坂の商店街を経て飯田橋駅に至る。東西線はこの坂を上って行く。 |
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大久保通り 筑土八幡神社
昔、嵯峨天皇の御代(今から約千二百年前)に武蔵国豊島郡牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊が現れて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん。」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の梢の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現れたもうたことを知り、すぐに注連縄ををゆいまわして、その松を祀った。
その後、伝教大師がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけた。さらにその後、文明年間(今から約五百年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。 |
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大久保通り 飯田橋交差点で斜め上に左折、外堀通りへ
この交差点は五差路で、斜め右下から左上に外堀通りが、右上から左下に目白通りが走り、中央下から中央に大久保通りが交差点に入る。図にすると分かりやすいが、交差点に入ると分かりにくい。 |
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大久保通り 飯田橋交差点で斜め上に左折、外堀通りへ |
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飯田橋交差点の歩道橋から見た外堀通り
歩道橋を渡り、外堀通りを進んですぐに飯田橋駅がある。 |
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都営 大江戸線 飯田橋駅 |
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外堀通り 飯田橋職安前交差点で左折 |
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小石川後楽園 正門
水戸徳川家の上屋敷に造られた庭園で、岡山の後楽園と区別するため、「小石川後楽園」と呼ばれる。藩祖徳川頼房が着手、徳川光圀が完成させ、徳川斉昭が手を加えた。 |
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小石川後楽園の北沿いの道を東進
左手に最近教授刺殺事件のあった中大理工学部が見える。 |
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旧町名由来 小石川町
京都聖護院門跡道興准后が、「廻国雑記」(文明18年・1486)に次のことを書いている。
ここ(上野忍岡)を過ぎて小石川と言へる所にまかりて、我方を思ひ深めて小石河いつをせにとかこひ渡るらん」
また、「江戸砂子」(享保17年・ 1732)に、「小石多き小川が幾流もある故なり・わけて伝通院の後の流、ねこまた橋の川筋小石川の濫觴なり」とある。
むかし、千川(小石川)、江戸川(神田川)や周囲の高台から流れた細流が、現在の後楽園一帯で合流していた。これらの川は砂や小石が多かったので、この辺を小石川村と呼んだ。明治5年、小石川町とした。 |
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後楽園駅前交差点歩道橋を渡り、左折 |
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後楽園駅前交差点歩道橋を渡り、左折 |
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文京区役所 シビックホール
地域で一番立派な建物は区役所、市役所である、との俚諺を絵に描いたような立派な建物である。 |
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富坂下交差点で右折、春日通りへ |
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都営 大江戸線 春日駅
富坂下交差点から白山通りとの交差点である春日町交差点までの東西の区間に、大江戸線春日駅がある。この区間の南側に文京区役所シビックホールがあり、地下鉄の入口がある。 |