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奥浅草観光案内所〜待乳山聖天〜今戸神社

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柳通り 旧浅草象潟町・同象潟一、二、三丁目 柳通り 旧浅草象潟町・同象潟一、二、三丁目 

 延宝五年(一六七七)の頃、この地に秋田の本庄藩主六郷邸が造られた。この六郷氏の領国にある鳥海山西麓の海岸には名勝の地象潟があり、この地名をとって、明治五年に浅草象潟町は名付けられた。象潟は風光明媚で、仙台の松島とならび称されるほどであったが、文久元年(一八六一)の地震で土地が隆起し、現在では田圃となっている。
 昭和九年、浅草象潟一、二、三丁目の誕生にともない、浅草象潟町は東側の大部分が同二丁目に変わったことから、それまでの十分の一の広さになった。
 町名を付ける場合、旧藩名を使う例は多いが、本町のように名勝地の名をとってつけられたのは珍しい。

象潟に因み、柳通りには松尾芭蕉の奥の細道の句碑や、地元出身の浜口京子の北京オリンピックでの銅メダル獲得記念オリーブなどがある。
柳通り 右折して一葉桜・小松橋通りへ 柳通り 右折して一葉桜・小松橋通りへ 

交差点名はないが、右折すると浅草警察署がある。
ニンニンパンダバス(浅草ライン) #4 奥浅草観光案内所 ニンニンパンダバス(浅草ライン) #4 奥浅草観光案内所 

奥浅草観光案内所は、バス停を見つけて、ふと右を見たらあったが、見落としやすいし、この一帯に観光する場所もない。

浅草見番同様、バス停は以前の場所にあり、乗るためには道の向かい側に行く必要がある。
一葉桜・小松橋通り 浅草警察署 一葉桜・小松橋通り 浅草警察署 
一葉桜・小松橋通り 浅間神社(浅草のお富士さん) 一葉桜・小松橋通り 浅間神社(浅草のお富士さん) 

 浅間神社は、富士山への信仰に基き勧請された神社で、神体として「木造木花咲耶姫命坐像」を安置する。
 創建年代は不明だが、「浅草寺志」所収「寛文十一年江戸絵図」に表記があり、江戸時代初期の寛文十一年には鎮座していたようである.現在の鎮座地は、高さ約二メートルほどの高みを成しているが、中世から江戸初期にかけて、関東地方では人工の塚、あるいはぼ自然の高みに浅間神社を勧請する習俗があったとされており、当神社の立地もそうした習俗に基くものと思われる。
 江戸時代には浅草寺子院修善院の管理のもと、修験道による祭祀が行われ、江戸を代表する富士信仰の聖地として、各所の富士講講員たちの尊崇を集めた。明治維新後は浅草寺の管理を離れ、明治六年には浅草神社が社務を兼ねることとなり、現在に至っている。
 本殿は、平成九・十年の改修工事によって外環のみ新たに漆喰塗がほどこされたが、内部には明治十一年建築の土蔵造り本殿が遺されている。さらに、この改修工事に伴う所蔵品調査により、江戸時代以来の神像・祭祀用具・古文書などが大量に確認された。
一葉桜・小松橋通り 浅間神社(浅草のお富士さん) 一葉桜・小松橋通り 浅間神社(浅草のお富士さん) 
一葉桜・小松橋通り 浅草五丁目交差点で馬道通りを渡る 一葉桜・小松橋通り 浅草五丁目交差点で馬道通りを渡る  
一葉桜・小松橋通り 浅草五丁目交差点で右折、吉野通りへ 一葉桜・小松橋通り 浅草五丁目交差点で右折、吉野通りへ 
吉野通り 言問橋西交差点手前で左折、待乳山聖天へ 吉野通り 言問橋西交差点手前で左折、待乳山聖天へ 

交差点名はないが、待乳山聖天への案内柱があり、先に言問橋西交差点が見える。
待乳山聖天 待乳山聖天 

待乳山聖天は、浅草寺の支院である。創建は推古天皇の9年(602年)の夏、旱魃にあえぐ人々に十一面観音が大聖尊歓喜天に化身し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀った事による。
待乳山聖天 突き当りを左折、石浜通りへ 待乳山聖天 突き当りを左折、石浜通りへ 
石浜通り 待乳山聖天 石浜通り 待乳山聖天 

待乳山聖天は、隅田公園 リバーサイド スポーツセンターの斜め前、山谷堀公園の手前にある。
石浜通り 山谷堀公園 今戸橋 石浜通り 山谷堀公園 今戸橋 
石浜通り 山谷堀公園 今戸橋 石浜通り 山谷堀公園 今戸橋 

 山谷堀がいつ頃掘られたかはっきりしないが江戸の吉原との関係からみてもおそらく江戸初期にできたものであろう。
 都下水道局ポンプ場のところから隅田川へと注ぐ約七〇〇メートルにおよぶ山谷堀は、北区の音無川を源とし、飛鳥山の北側、王子権現の下を経て通じていた。
 当時、この堀は吉原への通路の一つであった。山谷堀を通るので吉原通いを別名、山谷通いともいった。猪牙船などを仕立ててこのコースを使う遊興はぜいたくとされ、まさにおだいじん遊びだった。
 堀の上流の方から日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、山谷堀橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と九つの橋がかけられていたが、埋立に伴いすべて取り除かれており、橋台のみが昔の面影を残している。
 現在は、水と緑の懇いの公園として整備されている。
石浜通り 左斜めの道に進む 石浜通り 左斜めの道に進む 

右に進むと橋場通りとなる
石浜通り 北めぐりん #4 リバーサイド スポーツセンター前 石浜通り 北めぐりん #4 リバーサイド スポーツセンター前 
石浜通り #4 リバーサイド スポーツセンター前に停まる 北めぐりん 石浜通り #4 リバーサイド スポーツセンター前に停まる 北めぐりん 
石浜通り 今戸神社 石浜通り 今戸神社 

 当社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉天皇の時代康平六年(一〇六三)源頼義、義家父子は勅命に依り奥州の夷賊安太夫安倍貞任、宗任を討伐の折今戸の地に到り、京都の石清水ハ幡を鎌倉鶴ケ岡と浅草今津村(現今戸)に勧請しました。
 応神天皇の母君神功皇后は新羅を始め三韓征伐の際、時恰も天皇を宿されその帰路天皇を九州筑紫で誕生されました。
従って応神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し、安産子育ての神と崇敬されております。
 伊弉諾尊・伊弉冉尊御夫婦の神は加賀の白山比盗_社の御祭神にして、嘉吉元年(一四四一)こ千葉介胤直が自分の城内に勧請しました。諾冉二神は子孫の繁栄を与えられると共に縁結びの神と崇敬されております。 昭和十二年今戸八幡と合祀され今戸神社と改称されました。
 今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別字今都)となりました。
石浜通り 今戸神社 石浜通り 今戸神社 

今戸神社は招き猫発祥の地であり、沖田総司終焉の地となっている。

招き猫の起源は今戸神社と、豪徳寺があるが、豪徳寺の方が有名である。

境内に招き猫の碑がある。

お江戸は浅草
今戸で生まれ
愛され続ける
招き猫
今戸神社 今戸神社 

境内には沖田総司終焉之地碑や、招き猫の碑などがある。
今戸神社 今戸神社 

以前は社殿手前にニンニンパンダバスのバス停が設けられており、道路沿いにはないので注意が必要だった。
今は石浜通りの鳥居前に移設されており、注意書きが自動販売機の上に設けられている。
ニンニンパンダバス(浅草ライン) #5 今戸神社 ニンニンパンダバス(浅草ライン) #5 今戸神社 

街路樹の陰になって分かりにくい。



 
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