上野公園、上野寛永寺
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上野公園 廃業となった聚楽台 50年の歴史も持つ聚楽台(上野百貨店)であるが、老朽化が進み、今年(平成20年)4月21日に閉店、再開発される。西郷さんの銅像脇から聚楽台に入る口があるなど、上野公園と一体化したシンボルではあるが、薄汚いかつての上野の匂いがプンプンする古臭い存在でもあった。 豊臣秀吉の聚楽「第」ではなく、聚楽「台」である。豪邸の「第」ではない。 |
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上野公園 中央通りを上野駅不忍口から少し秋葉原に戻った所にある階段で、上ってすぐ右手に上野のシンボル西郷さんがある。 |
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上野公園 西郷隆盛 銅像から見た風景 上野公園前交差点で、左手にヨドバシカメラがある。秋葉原と同じくマルチメディア上野である。 |
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上野公園 西郷隆盛 銅像 敬天愛人を信条とする西郷隆盛の生い立ち、明治維新での活躍、西南の役での敗死などが書かれた後で、像の由来が書かれている。 西南の役のため一時逆賊とされたが明治二十二年二月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志二万五千人の醵金を得て、明治二六年起工、同三〇年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。 |
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上野公園 彰義隊の墓 江戸幕府第十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の除名を求め、慶応4年(一八六六)2月に同盟を結成、後に彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。 慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。 |
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上野公園 彰義隊墓所 西郷さんの後ろの木立の中に建てられている。 一五代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応四年(一八六八年)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦五月十五日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が一日で彰義隊を壊滅させた。 生き残った小川ら隊士は、明治七年(一八七四年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千佳円通寺内に合葬されている。以後、百二十年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。 |
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上野公園 上野寛永寺 清水観音堂 | |
上野公園 東京文化会館界隈 案内図 | |
上野公園 桜並木 4月初めの満開の時は多くの見物客で溢れ返るメインストリートである。 |
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上野公園 上野大仏、パゴダ 正面の丘は、かつて「大仏山」と呼ばれ、丘上にはその名のとおり大きな釈迦如来座像が安置されていた。最初の大仏は越後(現 新潟県)村上藩主堀直光が、寛永八年(一六三一)に造立した二メートル八十センチ前後の釈迦如来像であったが、粘土を漆喰で固めたものであったため、正保四年(一六四七)の地震により倒壊してしまった。 明暦〜万治年間(一六五五〜一六六〇)には、木食僧浄雲が江戸市民からの浄財によって、三メートル六〇センチをこえる青銅製の堂々たる釈迦如来座像を造立した。その後幾多の変遷があったが、関東大震災で大仏の頭部が落下、第二次大戦の金属供出で顔のみ残った。 また、同じく丘陵城の正面にある建物は、「パゴダ」(仏塔のこと)と呼ばれている。上野公園の名所のひとつとするために建立したもので、昭和四十二年に完成した。 |
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上野公園 上野大仏、パゴダ | |
上野公園 上野大仏 上野大仏略記 寛永八年(一六三一年)越後の国村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、戦乱に倒れた敵味方将兵の冥福を祈るために土で釈迦如来像を造立した。 明暦・万治の頃(一六五五〜六〇年)木食僧浄雲師により銅仏に改められた。元禄十一年(一六九八年)露座の大仏に仏殿が建立された。 天保十二年(一八四一年)火災に遭い、天保十四年、末孫堀丹波守直央公が大仏を新鋳しまた仏殿を再建した。 大正十二年関東大震災によって佛頭がおち、寛永寺にて保管、その後佛体は解体され第二次世界大戦時に献納された。 昭和四七年春彼岸、尊顔を再び旧地に迎えて祀り再建を計る一助とする。 |
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上野公園 上野東照宮 上野東照宮 祭神 徳川家康、吉宗、慶喜 元和二年二月見舞いのため駿府城に籐堂高虎と天海僧正は危篤の家康公の病床に招かれ三人一緒に末永く魂鎮めるところを造って欲しいと遺言された。そこで高虎の屋敷地であるこの上野の山に寛永四年(一六二七年)に本宮を造営した。 その後将軍家光はこの建物に満足出来ず、慶安四年現在の社殿を造営替えし、江戸の象徴とした。 上野東照宮は、4月初めには参道の桜並木を見る人で賑わう。 |
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上野公園 上野動物園 上野東照宮の北側に隣接しているが、歩いた日が月曜日で閉園である。知らずに来て、残念がる人もいる。 |
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上野公園 大噴水 正面奥に東京国立博物館が見える。 |
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上野公園 東京国立博物館で右折 博物館前の交差点を左折すると東京藝術大学前を通り、谷中霊園に向かう。右折すると寛永寺の両大師前を通り、跨線橋を渡ってかっぱ橋本通りを経て浅草に向かう。 |
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上野寛永寺 両大師 正保元年(一六四四)に寛永寺開山天海僧正の像を安置するため建立された。後に延暦寺の慈恵大師の像も安置されたため、、両大師となった。 |
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上野寛永寺 両大師 幟には慈眼(天海僧正)、慈恵の両大師の名前が書かれている。 |
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上野寛永寺 旧本坊表門 両大師橋手前にあるが、しっかりした門扉が傍に寄ることを妨げ、いつもこのような写真しか撮れない。 |
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上野寛永寺 旧本坊表門 | |
上野寛永寺 両大師橋前交差点で左折 JRの線路を跨ぐ跨線橋で、渡るとかっぱ橋本通り、かっぱ橋道具街を経て浅草に向かう。 左折するとすぐ左手に入口があり、旧本坊表門の間近に行けることが分かった。 |
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上野寛永寺 旧本坊表門 | |
上野寛永寺 旧本坊表門 江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置されていた。現在の噴水池周辺(竹の台)に、本尊薬師如来を奉安するする根本中堂、その後方(現 東京国立博物館敷地内)に本坊があり、「東叡山の山主しである」輪王寺宮法親王が居住していた。 慶応四年(一八六八)五月の上野戦争のため、本坊はことごとく焼失し、表門のみ戦禍を免れた。 |
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上野寛永寺 現龍院 殉死の墓 生活相談一時保護所とマンションの間にある墓地で、現龍院は国立博物館側の道路沿いにある。 慶安四年(一六五一)四月二十日、三代将軍徳川家光が死去した。その後を追って家光の家臣五名が殉死、さらにその家臣や家族が殉死した。ここには家光の家臣四名と、その家臣八名の墓がある。 堀田正盛(元老中、下総国佐倉藩主)。 阿部重次(老中、武蔵国岩槻藩主)。家臣の新井頼母・山岡主馬・小高隼之助・鈴木佐五右衛門・村片某。 内田正信(小姓組番頭・御側出頭、下野国鹿沼藩主)。家臣の戸祭源兵衛・荻山主税助。 三枝守恵(元書院番頭)。家臣の秋葉又右衛門。 殉死とは、主君の死を追って家臣や家族らが自殺することで、とくに武士の世界では、戦死した主君に殉じ切腹するという追腹の風習があった。江戸時代になってもこの風習は残り、将軍や藩主に対する殉死者が増加、その是非が論議されるようになった。家光への殉死から十二年後、寛文三年(一六六三)に幕府は殉死を禁止。その後、この風習はほぼ絶えた。 |