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寛永寺 根本中堂前の区道を東南に進む |
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寛永寺 根本中堂前の区道を北西に進む東西めぐりん
台東区のコミュニティバスである東西めぐりんは通常4本/時であるが、黒田清輝記念館前交差点で芸大前と寛永寺の2方向に分岐するため、そちらは2本/時となる。 |
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突き当りで左折 |
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東京文化財研究所前を北上
道の反対側は台東区立上野中学校である。 |
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台東区立上野中学校前を北上 |
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突き当り 上野寛永寺 重文 徳川綱吉霊廟勅額門
左折して第三霊園の入口から勅額門に向かう。 |
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上野寛永寺 第三霊園 入口 |
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上野寛永寺 重文 徳川綱吉霊廟勅額門
五代将軍綱吉は、延宝八年(1680)五月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永六年(1709)一月十日に六十三歳で没した。法名を常憲院という。 綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。 元禄十一年(1698)九月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。また、それに伴って先聖殿(現・湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。 綱吉の霊廟は宝永六年の十一月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみてももっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その霊廟と共にこれら災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。 |
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上野寛永寺 重文 徳川綱吉霊廟勅額門
以前はこの案内板しかなかったが、平成20年の大河ドラマの天璋院篤姫ブームにより、その説明板も脇に設けられていた。 |
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上野寛永寺 天璋院篤姫墓所(非公開)
天璋院篤姫は天保六年(一八三五)十二月十九日、薩摩藩今和泉島津家島津忠剛(ただだけ)の長女として今和泉島津家本邸(現在の鹿児島県指宿市)にて生を受けました。(幼名一子(かつこ)・於一(おかつ))
嘉永六年(一八五三)、島津本家二十八代当主島津斉彬(なりあきら)の養女となり、名を篤姫と改めて鶴丸(鹿児島)城に入り、また同年中に鹿児島を出立し京都の近衛家に参殿ののちに江戸城下、芝の藩邸に入っています。
その後、安政三年(一八五六)に近衛家の養女となり、名を敬子(すみこ)と改め、同年に徳川十三代将軍家定(いえさだ)公の正室として輿入れしました。
この輿入れの際に、篤姫は斉彬より十四代将軍に一橋慶喜を推すようにとの密命をうけていましたが、家定公は心身が虚弱で、入輿からわずか二年後の安政五年(一八五八)に逝去され、十四代将軍には紀州の慶福(よしとみ(のちの家茂公))が就任しています。(落飾し、天璋院と号する。)
また同年、養父斉彬が逝去され、篤姫はその密命を果たせぬまま、夫と養父を相次いで亡くしました。
しかし、落胆の中でありながら、篤姫は若き将軍の補佐によく勤め、また大奥をまとめる為にも尽力しました。
公武合体の為、家茂公のもとへ降嫁した和宮(かずのみや)とは当初は対立していましたが、のちに心を通わす仲となり、その後敵対してしまった実家(薩摩)に対し、徳川家の存続を歎願するなど江戸城無血開城にも大きく貢献をしています。
明治になると、わずか六歳で徳川家を継いだ十六代家達(いえさと)公の養育に余生を捧げ、明治十六年十一月に四十八歳で亡くなるまで、徳川家の為にその生涯を捧げました。 なお、墓所は五代綱吉公霊廟内、家定公の墓所の隣にあり、宝塔の脇には好物であったとされる枇杷(びわ)の木が植えられています。 |
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上野寛永寺 重文 徳川綱吉霊廟勅額門 |
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上野寛永寺 徳川綱吉霊廟勅額門前の石灯籠の台
どういう経緯で置かれているのか分からないが、石灯籠の台が積み重ねられている。 |
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上野寛永寺 徳川綱吉霊廟勅額門から見た台東区立上野中学校 |
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徳川綱吉霊廟勅額門から塀の奥に見える東京スカイツリー
塀沿いに東進すると道路沿いに第4代将軍の徳川家綱の霊廟の勅額門がある。 |
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台東区立上野中学校前を南下
T字路で、右折して直進すると寛永寺の根本中堂に着く。 |
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国際子ども図書館(旧帝国図書館) |
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国際子ども図書館(旧帝国図書館)
台座中央には小泉八雲の横顔が刻まれている。 |
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国際子ども図書館(旧帝国図書館) |
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国際子ども図書館(旧帝国図書館) |
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国際子ども図書館(旧帝国図書館)
この図書館は、明治5年8月湯島の聖堂内に開館した書籍館(文部省博物局所管)以来の伝統を受け継いでいる。書籍館は幾度か名称の変更を経て、明治30年4月に帝国図書館となった。この建物は明治39年4月帝国図書館新築工事の第一期分として竣工したものである。 当初の建設構想は大きく、全部が完成すると東洋一の図書館になる予定であったが、当時の財政事情により全体の四分の一程度が完成するに留まった。その後、建物の左側の部分が昭和4年に増築され、現在の規模となった。 昭和24年からは、国立国会図書館支部上野図書館として一般公衆の利用に供することを主たる目的として運営されてきたが、改修工事を行い、平成12年5月5日国立国会図書館国際こども図書館として開館、現在に至っている。躯体はほぼ創建時のままとすることで、全体として洗練されたネオ・ルネッサンス調の風格のある建築となり、明治の雰囲気を今に残している。 |
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国際子ども図書館(旧帝国図書館) |
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黒田清輝記念館前交差点で都道神田白山線(452号)を渡り左折、上野公園へ
交差点名はないが、右に黒田清輝記念館があり、交差点を渡って右には東京芸大附属図書館、左には旧音楽学校奏楽堂がある。 |
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上野公園 黒田清輝記念館前交差点 博物館動物園駅跡 |
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上野公園 黒田清輝記念館前交差点 博物館動物園駅 照明復元事業
この博物館動物園駅は、1933年(昭和8年)に竣工しました。6灯の壁付照明器具が、3方に開いた出入口を照らしていましたが、第2次世界大戦の金属供出により取外され、永く失われていました。 この駅舎と地下駅空間の保存と再生を願い、20年間にわたる活動を続けてきた市民グループ、NPO法人<上野の杜芸術フォーラム>による企画と募金活動により、2010年、漸く1対の復元が成りました。芸術の中枢機能が集積するこの交差点<アートクロス上野>に向けた光を復活させるものです。 |
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上野公園 黒田清輝記念館前交差点 博物館動物園駅跡
昭和8年、京成本線開通にあわせ開業したが、老朽化が進み、ホームも4両編対応だったため、平成9年営業停止、16年に廃止となった。 |