秋葉原〜浅草橋〜両国

【関連サイト】 JR 総武線(平成15年撮影)


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【撮影記録】
平成20年 11月 26日 晴れ
10:40〜14:10 20,500歩(昼食 15分)(概算 16.4km)
総武線 秋葉原〜両国〜新小岩
営業距離 8.6km 駅数 7

ほぼ1ヶ月ぶりの歩きだった。両国界隈は撮るべきものが多く、国技館、回向院、吉良邸跡、横網町公園(旧陸軍被服廠跡)、北斎通りと撮りまくったら、秋葉原〜錦糸町が営業距離3.4kmなのに、1万歩(約8km)を越す有様だった。同区間は靖国道り、京葉道路を歩くと、ほぼ営業距離と同じである。
昭和通りに出て右折、南下 昭和通りに出て右折、南下 
昭和通り 神田川に架かる和泉橋 昭和通り 神田川に架かる和泉橋 
昭和通り 和泉橋南詰 「和泉橋」 昭和通り 和泉橋南詰 「和泉橋」 

この橋を和泉橋といいます。「御府内備考」には藤堂和泉守屋敷前の通りに架かるゆえに呼名としたとあります。楕を渡った右側が和泉守屋敷跡で、神田和泉町の町名が残っています。
神田川の南岸沿いには、柳を植えた土手が築かれていたので、この辺を柳原といい、橋の北側一帯を向柳原といいましたが、明治初年ごろに、柳は枯れたり取除かれ、また関東大震災後の区画整理で、土手も平になリました。橋はたびたびの火災で焼けましたが、明治二十五年(一八九二)に鉄橋となり、欄干の唐草模様の中に神田和泉の文字が崩し模様になっていました。
大正五年(一九一六)に鋼橋こ架け替え、さらに昭和二年(一九二七)帝都復興事業の一環で拡張されました。
昭和通り 和泉橋南詰 「柳原土手跡」 昭和通り 和泉橋南詰 「柳原土手跡」 

 「江戸名勝志」に、「柳原土手西は筋違橋(元の万世橋)より東は浅草橋迄の間、長さ十丁余(約一.一キロメートル)つづけり。
柳樹多くあり」とあり、昔このあたりは土手で柳の並木がありました。「柳森神社記」によると長禄二年(一四五八)太田道灌が江戸城の鬼門よけに、柳を植えさせたとあります。又享保(一七一六〜三五)のはじめ将軍吉宗が昔の柳が枯れて柳原土手の名だけになっていたので植えさせたのだともいいます。
 昔は町屋が土手の南側下まで並んでいたので、土手上を人は通行していました。寛政六年(一七九四)幕府は土手沿いの人家を取りはらい火除地とし、この明地にその後老中松平定信は、凶災に備えてお救い米を貯蔵する籾蔵を建てました。安政三年(一八五六)この籾蔵は葛飾郡小菅村に移されたため翌年夏よりこの跡地に又町家ができました。柳森稲荷(柳森神社)は土手下にあって元禄八年(一六九五)はじめて社が完成し繁昌したといいます。故に稲荷河岸とも呼ばれていました。関束大震災(一九二三)で社は焼失しましたが再建され境内に力石などが残っています。又土手は昔、葭簀の古着屋、古道具屋が店を並べていたそうです。明治六年(一八七三)土手は崩されました。
昭和通り 岩本町交差点で左折、靖国通りへ 昭和通り 岩本町交差点で左折、靖国通りへ 
靖国通り 東神田交差点で清洲橋通りを渡る 靖国通り 東神田交差点で清洲橋通りを渡る 
靖国通り 浅草橋交差点で左折、江戸通りへ 靖国通り 浅草橋交差点で左折、江戸通りへ 
江戸通り 神田川に架かる浅草橋を渡る 江戸通り 神田川に架かる浅草橋を渡る 

奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
南詰に関東郡代屋敷跡の碑があり、渡った北詰には浅草見附跡の碑がある。
江戸通り 浅草橋 人形店街 吉徳 江戸通り 浅草橋 人形店街 吉徳 

総武線の高架を挟んで南北に吉徳や、久月などの老舗人形店が並ぶ。
JR 総武線 浅草橋駅 JR 総武線 浅草橋駅 
江戸通り 神田川に架かる浅草橋を渡る 江戸通り 神田川に架かる浅草橋を渡る 

下流には隅田川へ注ぐ河口手前の柳橋が見える。
江戸通り 浅草橋交差点で左折、京葉道路へ 江戸通り 浅草橋交差点で左折、京葉道路へ 

浅草橋交差点で、靖国通りは京葉道路と改称する。
京葉道路 両国橋西交差点 京葉道路 両国橋西交差点 

左手に旧跡両国広小路の碑があり、その先の白いビルの手前横を左折、柳橋通りに入ってすぐに柳橋がある。交差点の右手には、神田明神の神幸祭で昼食休憩が行われる両国旧仮置屋の川崎大師東京別院の薬研堀不動院がある。
京葉道路 両国橋西交差点 旧跡両国広小路の碑 京葉道路 両国橋西交差点 旧跡両国広小路の碑 

明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死するものが多数出た。このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。隅田川は当時武蔵下総両国の境をなしていた。また延焼防止のため橋に向う沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり 江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した。明治維新のころここには新柳町元柳町横山町吉川町米沢町薬研堀町若松町があったが、昭和7年合併して日本橋両国となり現在に及んだ。維新後百年を経た今日、まちの近代化はめざましく、広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが、300年前火除け地が設定され、これが広小路に発展して行った事跡のなかには、先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある。ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため、町会の総意により、この碑を建てた。
京葉道路 両国橋西交差点で左折、柳橋通りへ 京葉道路 両国橋西交差点で左折、柳橋通りへ 

白いビルの脇に柳橋通りがあり、入ってすぐに神田川の河口手前に架かる柳橋がある。
柳橋通り 神田川に架かる柳橋 柳橋通り 神田川に架かる柳橋 

柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄十年(一六九七)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。
 その頃の柳橋辺りは隅田川の船遊び客の船宿が多く”柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。
柳橋通り 神田川に架かる柳橋 柳橋通り 神田川に架かる柳橋 
柳橋通り 神田川に架かる柳橋 柳橋通り 神田川に架かる柳橋 

粋筋の街柳橋に相応しく、橋には赤と青の簪が飾られている。
柳橋通り 神田川に架かる柳橋 柳橋通り 神田川に架かる柳橋 

柳橋は隅田川への河口手前に架かり、右手に両国橋が見える。
京葉道路 両国橋 京葉道路 両国橋 

明暦の大火(1657年)を契機に架けられた橋で、武蔵国と下総国の両「国」に架かる橋、と言うことで両国橋と名づけられた。
京葉道路 両国橋 京葉道路 両国橋 

神田川河口に架かる柳橋が見える。
xd1 京葉道路 両国橋 
京葉道路 両国二丁目交差点で左折、国技館通りへ 京葉道路 両国二丁目交差点で左折、国技館通りへ 

この交差点は三叉路で、突き当りにある右手の緑のタワーや、その横のビルは旧国技館の両国シティコアで、右端の黒い屋根は両国回向院(次ページに掲載)である。
国技館通りを北上 国技館通りを北上 

名力士の手形や像が並ぶ国技館通りの両脇には、ちゃんこ料理の店や、相撲関係の土産物店が両国駅まで続く。
国技館通り 名力士の手形や像 国技館通り 名力士の手形や像 

手形には力士名が書かれているが、残念なことに力士像についての説明がない。明らかに大鵬と分かるものもあるが、手形の数人の誰かだろう、と想像するだけである。
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