東叡山寛永寺・上野東照宮


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【見出し】  (1)東叡山寛永寺  (2)上野東照宮

(1)東叡山寛永寺  

上野寛永寺、輪王殿案内図 上野寛永寺、輪王殿案内図 

図の左端中央の鶯谷駅から寛永寺陸橋でJRを渡り、図の下の谷中墓地に隣接して寛永寺がある。
上野寛永寺 上野寛永寺 
寛永寺 根本中堂 寛永寺 根本中堂 
寛永寺 根本中堂 寛永寺 根本中堂 
上野寛永寺 根本中堂脇の石灯篭 上野寛永寺 根本中堂脇の石灯篭 

慶安4年(1651年)に、従五位下の南部侯より大猷院(徳川家光)に献じられた。徳川家光は慶安4年に死去している。
東叡山 寛永寺 東叡山 寛永寺 
東叡山 寛永寺 東叡山 寛永寺 

右側の建物は、徳川綱吉の霊廟の勅額門
上野寛永寺 徳川綱吉霊廟勅額門 上野寛永寺 徳川綱吉霊廟勅額門 

五代将軍綱吉は、延宝8年(1680)5月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永6年(1709)1月に63歳で死去した。

この門から先は毎度のことだが、入ることが出来なかった。
上野寛永寺 徳川綱吉霊廟勅額門 上野寛永寺 徳川綱吉霊廟勅額門 
徳川綱吉の霊廟の勅額門 徳川綱吉の霊廟の勅額門 
徳川家の墓 徳川家の墓 

寛永寺の外にあり、新しくて小さい。寛永寺と徳川と言う関係から気になるが、どこの徳川か分からない。
上野寛永寺 徳川家綱霊廟勅額門 上野寛永寺 徳川家綱霊廟勅額門 

四代将軍家綱は、慶安四年(一六五一)四月に父・家光の死に伴って、わずか十才で将軍の座につき、延宝八年(一六八〇)五1月八日にに三十九才で没した。法名を厳有院という。

鶯谷駅近くで、地図ではこの裏に徳川家墓所があるはずだが、入ることは出来ない。
上野寛永寺 徳川家綱霊廟勅額門 上野寛永寺 徳川家綱霊廟勅額門 
上野寛永寺五重塔 上野寛永寺五重塔 

上野東照宮の参道沿いにあり、鉄柵に囲まれて寛永寺境内に入ることが出来なかった。
上野寛永寺 両大師 上野寛永寺 両大師 
上野寛永寺 両大師 上野寛永寺 両大師 
寛永寺の両大師 寛永寺の両大師 
上野寛永寺 輪王寺 上野寛永寺 輪王寺 
寛永寺 旧本坊表門 寛永寺 旧本坊表門 
谷中霊園 徳川慶喜の墓 谷中霊園 徳川慶喜の墓 
谷中霊園 徳川慶喜の墓 谷中霊園 徳川慶喜の墓 

寛永寺ではなく、谷中霊園の南の端にあり、大原重徳の墓の近くにある。墓所は鉄柵があり、入ることは出来ない。
谷中霊園 徳川慶喜の墓 谷中霊園 徳川慶喜の墓 
谷中霊園 徳川慶喜の墓 谷中霊園 徳川慶喜の墓 

手前左側が徳川慶喜、右側が妻の墓である。
谷中霊園 徳川家墓地 谷中霊園 徳川家墓地 

いかにもと思わせる宝塔の頭がいくつか見えるが、建設現場にある白い防壁に囲まれており、入口を探したが分らなかった。
徳川家墓地に自由に入れるとなると、観光客が殺到するのを防ぐためとは思うが、寛永寺では一般の墓所に入るのも難しかった。

(2)上野東照宮  

上野恩賜公園案内図 上野恩賜公園案内図 
寛永10年に作られた東照宮の鳥居 寛永10年に作られた東照宮の鳥居 

鳥居を何気なく見たら、厩橋侍従酒井雅楽頭忠世の名前があった。あの下馬将軍の異名を持つ酒井候と同じ名前だ、と思って上を見たら寛永の日付があり、びっくりした。
上野東照宮 上野東照宮 
上野東照宮 表参道 上野東照宮 表参道 
銅灯篭の寄進者名に伊賀少将藤堂高虎の名前。 銅灯篭の寄進者名に伊賀少将藤堂高虎の名前。 

もともと東照宮は藤堂高虎が屋敷を返上、創建した・
表参道の銅灯篭。 表参道の銅灯篭。 
慶安年間の石灯籠 慶安年間の石灯籠 
社殿前の石灯籠 社殿前の石灯籠 



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