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京都 大徳寺H221002

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 大徳寺−1 南門〜勅使門〜瑞峯院

 2部に分けて大徳寺の写真を掲載し、これは最初の1部である。

 大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山で、広い寺城に別院2寺と21の塔頭を有する。鎌倉末期の正和4年(1315)に、大燈国師(宗峰妙超)によリ開創され、花園天皇と後醍醐天皇の厚い信仰を受けた。応仁の乱で建物は焼失したが、「一休さん」として親しまれている47世住持の一休宗純が堺の豪商の保護を受けて復興し、豊臣秀吉や諸大名により建物や寺領が寄進され、江戸時代初期に現在の建物はほとんど整えられた。

 大徳寺の南門から参道を北上、織田信長が父・信秀の追善菩提のため、永禄5年(1562)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に命じ祝女俶和尚を開祖として建立した黄梅院、文亀2年(1502)に大徳寺第72世住職・東渓宗牧を開山として、能登領主・畠山義元が豊後の大友義長らとともに創建した龍源院を通り、突き当りの右には旧大宮通に出る総門がある。左には前後唐破風、左右切妻、屋根桧皮葺の四脚門、後水尾天皇より拝領したと伝えられる勅使門(重要文化財)がある。
 総門から勅使門を経て進んだ角に平家打倒の鹿ヶ谷の陰謀の首謀者の一人として、鬼界ヶ島に流された平康頼之墓がある。柵が設けられ近づくことが出来ない三門(重要文化財)は、千利休居士により二階部分が設けられた。三門の左には大永年中より天文2年間(1521〜1533)に、能登の戦国大名・畠山義総が仏智大通禅師を開祖として建立した興臨院がある。その先には天文4年(1535)に九州の戦国大名・大友義鎮(宗麟)が徹岫九和尚を開祖に迎え建立した瑞峯院がある。

 大徳寺−2 三門〜宗務本所〜高桐院

 2部に分けた大徳寺の2部目である。

 三門(重要文化財)左の参道を北上、仏殿(重要文化財)、法堂(重要文化財)、その参道の向かいの三玄院と経て、突き当りに大徳寺宗務本所がある。仏殿(重要文化財)は当山第1世大現国師が創建、応仁の乱にて消失、一休和尚等によって再建されるが、寛文5年(1665)那波常有によって改めて建造された。法堂(重要文化財)は、正中2年(1325)夏、宗印禅者を檀越として修造を始めるが応仁の兵乱によって消失、寛永13年(1636)、開山国師三百年遠諱に当たり、江月和尚の参徒、小田原城主稲葉丹後守正勝、正則父子により現在地に再建。
 三玄院は天正17年(1589)、浅野幸長・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)が、春屋宗園(大宝円鑑国師)を開祖とし、創建した。小堀遠州・古田織部・藪内剣仲・長谷川等伯などは、春屋に禅を学び、沢庵・千宗旦らも修行をし、春屋・三成・忠政・剣仲・織部の墓がまつられている。大徳寺宗務本所から参道を西進、右には織田信長の総見院があるが、非公開である上、一つの塀で囲まれて、どこにあるのかさえ分からない。瑞雲軒、近衛家廟所と過ぎて高桐院角で左折、南下する。高桐院は、江戸時代初期の武将で茶人としても有名な細川忠興(三斎)が、父・幽斎の弟・王甫章早紹jを開祖として建立した細川家の菩提寺である。境内には三斎と夫人ガラシャのほか、歌舞伎の創始者とされる出雲阿国らの墓がある。玉林院を経て、民家の間を歩き、北大路通に向かう。





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