|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(From H14-10-28)
目次
掲示板(一言どうぞ) |
有名仏閣 万歩計を腰に、浅草寺・浅草神社、東叡山寛永寺・上野東照宮、川崎大師、曹洞宗大本山 總持寺、深川不動尊、目黒不動尊、池上本門寺、西新井大師(総持寺)、鎌倉の円覚寺、東慶寺、建長寺、柴又帝釈天,、彦根藩井伊家菩提寺の豪徳寺、下総中山 法華経寺、加賀藩2代前田利長の菩提寺 富山高岡 瑞龍寺、京都の東本願寺、西本願寺、東寺、大徳寺、大阪の四天王寺をウォーキング。
浅草寺はいまさら言うまでもなく、下町屈指の繁華街である。雷門から仲見世通りを経て本堂に至るコースは、正月や、三社祭の時には歩くのではなく、人波に流される、と言ったほうがぴったりする。 寛永寺は中には入れないが、外からは根本中堂、徳川4代将軍家綱、5代将軍綱吉の霊廟の門、東照宮に隣接して柵越しに五重塔などを見ることが出来る。寛永寺の境内だったことから、上野東照宮は上野公園内にあり、藤堂高虎や、下馬将軍の異名をもつ酒井雅楽頭の名が刻まれた鳥居や銅灯篭などが並ぶ。 徳川家菩提寺である芝増上寺の境内だった芝公園は、芝公園駅から御成門駅まで延々と続く。芝公園交差点を少し北上すると神仏分離令で増上寺から独立した芝東照宮がひっそりとあり、その少し先には修復されて朱色が鮮やかな旧台徳院(徳川秀忠)霊廟惣門がある。さらに日比谷通りを歩くと大きな三解脱門があり、その先には寂れた有章院(徳川家継)霊廟 二天門が建っている。 伝通院が徳川家康の生母のお大(於大)の方を葬ったことから、豊臣秀頼の妻千姫、徳川家光正室の孝子など、徳川家所縁の墓がある。新撰組にも所縁があり、新撰組(新選組)前身の浪士組み結成の処静院跡、浪士組の清岡八郎や、佐藤春夫の墓がある。 深川不動尊は、元禄15年(1703年)に成田山新勝寺の別院として建立された。隣接して勧進相撲など相撲関係の碑が多い富岡八幡宮があり、参道を飾る「人情深川御利益通り」の幟や、深川めしなどの店が並ぶ。 目黒の秋刀魚で有名な徳川家光の庇護を受けた目黒不動尊は、東急目黒線の不動駅か、山手通りから行くことが出来るが、住宅街に周囲を囲まれており、分りにくい。鮮やかな朱色の仁王門が忽然と現れる、と言う感じである。大きな堂塔伽藍が造営されていたが、空襲で焼け、再建中とのことである。独鈷の滝や、青木昆陽(甘藷先生)の顕彰碑・墓、歌舞伎で有名な白井権八と遊女小紫との比翼塚などがある。
西新井大師は、天長時代(824~834年)に弘法大師が祈祷すると枯れ井戸から水が湧き出し、病も平癒したことから始まる。堂の西の井戸と言う意味で西新井となった。花で有名であり、桜、ぼたん、芍薬などの見どころの時期が山門に掲示されている。 題経寺は柴又帝釈天と言った方が分かりやすい。参道には松竹映画の大ヒット作寅さんシリーズに因んだせんべいなどの土産や、映画のモデルになった店、名物草だんごや甘酒の店が並び、参拝客で混んでいた。境内には、尾崎士郎作の人生劇場 青春立志の碑があった。 豪徳寺は、彦根井伊家の菩提寺で、安政の大獄で桜田門で暗殺された井伊直弼の墓があり、井伊掃部守直孝がこの地を領した時、夕立にあい、猫が招いてこの寺に入った、との話から招き猫の伝説が出来たことでも有名。平成18年に三重宝塔が出来た。 世田谷の名刹である九品仏(淨真寺)は、開山は珂碩上人で、四代将軍徳川家綱の延宝6年(1678年)に、奥沢城跡であったこの地を賜り創建された。3万6千坪の境内に七堂伽藍の完備した数少ない寺院である。珂碩上人が彫刻した九躰の阿弥陀如来像(九品仏)があり、それぞれ上品堂、中品堂、下品堂の三仏堂に三躰ずつ収められている。上品堂は、穢土(此岸)をあらわす本堂の向かいに建てられており、浄土(彼岸)を表象する。 年賀参拝客第1位を誇るが、意外と境内は小さい。しかし、正月に行くと近くの京急の駅から本堂までが非常に遠い。撮影時は2003年の秋で、18年ぶりの阪神優勝にトラ模様の達磨が売られていたが、売れ残った分の不良在庫化が心配である。 總持寺は元亨元年(1321年)瑩山禅師により能登に開創されたが、明治31年の大火で多くが焼失、今後の発展を考え、明治44年に鶴見に移転した。参道(白字渓)の坂を上り、三松関(総門)、三門を通り右折すると、信者のための研修道場で、宿泊施設でもある三松閣に着く。金鶏門から境内に入ると、正面右に大祖堂(瑞応殿)、左に仏殿が見える。貴賓接待用の紫雲臺から西に進み、大祖堂(瑞応殿)、詳細不明だが珍しい銀色の仏像の横に仏殿があり、突き当りに總持寺が能登から移転されて、最初に法要が厳修された放光堂がある。向唐門、香積台 (総受付)、三松閣と経て、参道(白字渓)を下る。 北鎌倉駅を降りてすぐにある円覚寺は、元寇の役での両国の戦死者を弔うために建立され、開山が無学祖元、開基は北條時宗である。北条家の家紋である三つ鱗の幕が張られた総門から入り、「円覚興聖禅寺」の伏見天皇の勅額が掲げられた山門がある。県道山の内道(21号線)を南下し、隣接する縁切り寺で有名な東慶寺を経て、建長寺に到る。建長寺は鎌倉五山の第一位で、開山は蘭渓道隆、開基は北條時頼である。仏殿と、勅使門である唐門は、芝増上寺にあった徳川二代将軍秀忠公夫人(お江の方、家光の母)の霊屋を譲り受けた。 平日なのに長谷観音は大勢の観光客が訪れ、入山の切符を買うのに列ができ、名所の紫陽花散策路は人で溢れ、一寸刻みである。山門前や放生池にある紫や白の菖蒲は清楚な美しさを見せる。 名刹 称名寺(金沢文庫)の惣門(赤門)をくぐると桜並木の参道で、横浜市指定有形文化財の塔頭光明院表門を過ぎ、二王門を抜けると庭園で、金沢貞顕の時代の文保三年(1319)から、翌年の元応二年にかけて造られた。阿字ヶ池に反橋(太鼓橋)が架かり、そこから見た金堂、鐘楼、釈迦堂などの並びは浄土曼荼羅の構図に基づき造られた浄土庭園である。 千葉街道を挟んで総武線 下総中山駅の反対側に京成本線の踏切があり、日蓮宗大本山の法華経寺の長い参道を総門、山門と進むと弁柄色の五重の塔が見えてくる。山門までは普通の商店街であり、そこからは両脇に塔頭が並び、法華経寺の手前でやっと観光土産などがある門前町である。 高岡駅から徒歩10分の高岡山瑞龍寺は、加賀藩第二代藩主前田利長が隠居城の高岡城で死んだ後、30歳近く歳の離れた異母弟の第三代藩主利常が建立した曹洞宗の禅寺である。 京都駅から烏丸通りを北上、阿弥陀堂門から東本願寺に入る。修築で白い覆いに囲われた御影堂は長さ76m(42間)、高さ38m(21間)の大きな建物である。西本願寺と違い、明治28年に建てられた巨大な阿弥陀堂、御影堂、参拝接待所しかなく、歴史を感じさせない印象を受ける。 東本願寺から花屋町通りを通って堀川通りに着くと、西本願寺の太鼓楼が見える。太古楼には時を報せる太鼓があったが、新選組が壬生屯所が手狭になって移った所でもある。東本願寺同様御影堂は修理中だが、係員がパンフレットを配ったり、案内係を勤めたりしているのが違う。歴史を感じさせる建物も多く、日暮門とも言われる国宝の唐門や、飛雲閣、書院の大玄関、経蔵などである。境内で開かれている菊花展は、大振りの見事な菊が所狭しと飾られている。 大宮八条交差点で左折後、少し南下すると五重塔が見える。新幹線で京都駅を出るとすぐ左手に東寺の五重塔が見えるので、近いと思っていたが、結構歩くのには驚いた。秋の特別拝観に当たり、五重塔の中の弘法大師の壁画などを見ることができた。1200年前に建てられ、江戸時代に再建された五重塔を始め、講堂や、金堂には写真は取れないが由緒ある仏像が多く、中国のようなきらびやかさは無いものの、荘厳な雰囲気を醸し出している。 大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山で、広い寺城に別院2寺と21の塔頭を有する。鎌倉末期の正和4年(1315)に、大燈国師(宗峰妙超)によリ開創され、花園天皇と後醍醐天皇の厚い信仰を受けた。応仁の乱で建物は焼失したが、「一休さん」として親しまれている47世住持の一休宗純が堺の豪商の保護を受けて復興し、豊臣秀吉や諸大名により建物や寺領が寄進され、江戸時代初期に現在の建物はほとんど整えられた。 鞍馬口通の突き当りにある金閣寺の黒門から参道を西進、総門を通ると鏡湖池と青空とが一体となった鮮やかな金色の金閣が美しい。庭園の北の丘に入ると、銀河泉(義満公 御茶の水)、巌下水(義満公 お手洗いの水)、龍門の瀧と鯉魚石の遺構や白蛇の塚がある「安民沢」という名の池が続く。丘の上には足利八代将軍義政公遺愛の富士形手水鉢がある茶亭「夕佳亭」があり、その下の不動堂から庭園を出る。 きぬかけの路の龍安寺入口の石柱で右折し参道を北上、拝観受付の山門を抜けて鏡容池沿いに歩き、三笑橋を渡って庫裡への石段を上る。庫裡から方丈に入ると有名な石庭である。石庭は、東西25メートル、南北10メートルの空間に白砂を敷き詰め、15個の石を配したもので、石の意味は謎に包まれており、見る人の自由な解釈に委ねられている。方丈を巡り「吾れ唯足ることを知る」と読む蹲踞(つくばい)、侘助椿を見て外に出る。辨天島に寄った後、鏡容池を周遊する。 仁和4年(888)、宇多天皇が仁和寺を完成されて退位後、出家して住坊にされた。二王門を抜けると参道のはるか奥に中門が見え、左の本坊表門から御殿に入る。白書院前の白砂が美しい南庭の向こうに勅使門があり、右近の橘、左近の桜の桜がある宸殿の廊下を回ると池泉式の北庭があり、境内の五重塔が見える。北庭の先には御殿内の唯一の仏堂で、仁和寺歴代門跡の位牌をおまつりしている。戻って本坊表門から長い参道を北上、勅使門を経て中門を通り境内に入る。遅咲きで有名な御室桜、工事中の観音堂、立派な五重塔と過ぎ、内裏紫宸殿を移築した金堂に至る。 大覚寺門前交差点から大覚寺参道でもある府道大覚寺平岡線(136号)を北上、大覚寺に入り、大玄関(式台玄関)に置かれた後宇多法皇御使用の御輿江を見る。江戸時代(延宝年間)に後水尾天皇より下賜された寝殿造りの宸殿の前庭には左近の梅、右近の橘、唐門、石舞台が白砂の中にある。嵯峨天皇・後宇多天皇・恒寂入道親王・秘鍵大師(弘法大師)の尊像をお祀りしている御影堂、後水尾天皇の等身大の僧形を奉安している御霊殿(安井堂)、五大堂(本堂)の観月台から見る大沢池と経て、霊宝館、勅封心経殿を通って大玄関(式台玄関)に戻る。 天龍寺は足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、暦応2年(1339)、夢窓疎石を開創に迎え創建した寺院である。長辻通(府道29号)から総門をくぐって天龍寺に入り、中門から長い参道を西進して法堂に着く。本玄関、庫裡は改修工事中のため大方丈を見物後に横を通り、曹源池庭園、雲龍図と過ぎ、小方丈脇の階段を上り、拝観コースに従って庭園を散策する。亀山上皇が離宮を営んだ際、後醍醐天皇が学問所とした地に建てられた多宝殿を経て、大方丈に戻り、参道を東進して長辻通に戻る。 四天王寺は、聖徳太子が推古天皇元年(593)に摂政皇太子として最初に建立された寺で、谷町筋の日本三鳥居の石の鳥居から入る。その横には葬送の時、太子自らこの上に影向され浄土に導く影向引導石がある。西大門(極楽門)を抜け、西重門で拝観料を払った後、講堂が付いた回廊に囲まれた中に五重塔と、金堂を見る。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|