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万歩計



(From H14-10-28)

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紀尾井坂〜桜田門〜有楽町


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左折し、外堀通りを進む 左折し、外堀通りを進む 

右折すると学習院初等科、東宮御所を経て明治記念館、外苑に向かう。分岐点には赤坂迎賓館がある
赤坂見附の高層ホテル群 赤坂見附の高層ホテル群 

左からホテルニューオオタニ、赤坂プリンスホテル、ホテルニューオオタニタワーである。
紀之国坂交差点で左折 紀之国坂交差点で左折 

外堀通りを直進すると、弁慶濠、赤坂見附交差点に向かう。
喰違見附跡 喰違見附跡 

紀之国坂交差点から来ると三叉路の交差点にあり、直進すると尾張藩邸跡を経て四ッ谷駅に出る。右折すると、ニューオオタニを経て紀尾井坂を下る。
尾張名古屋藩屋敷跡 尾張名古屋藩屋敷跡 

紀尾井ホール隣の料亭前にある。
 この一帯には、江戸時代に尾張名古屋藩徳川家の麹町邸かありました。寛永14年(1637)に拝領してから藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々な使われ方をしました。尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かったため、御三家筆頭となり大名の最高位に位置しました。義直は、慶長8年(1603)甲斐府中藩主、ついで慶長12年(1607)尾張清洲藩主を経て、後に名古屋藩主となり、尾張一国と木曽の山林を領地としました。尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。
尾張名古屋藩屋敷跡 尾張名古屋藩屋敷跡 
ホテル ニューオオタニ ホテル ニューオオタニ 
紀尾井坂 紀尾井坂 
紀尾井坂 紀尾井坂 

この坂を紀尾井坂といいます。「新撰東京名所図絵」には「喰違より清水谷公園の方へ下る坂を称う」また「紀尾井坂は、紀伊家、尾張家、井伊家の三邸此所に鼎立し存しを以って名つく」とかかれています。
清水谷 清水谷 

紀尾井坂を降り、弁慶濠に向かう所を言う。
清水谷公園 大久保利通哀悼碑 清水谷公園 大久保利通哀悼碑 

 明治一一年(一八七八)五月一四日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。
清水谷公園 大久保利通哀悼碑 清水谷公園 大久保利通哀悼碑 
紀伊和歌山藩 徳川家屋敷跡 紀伊和歌山藩 徳川家屋敷跡 

赤坂プリンスホテル手前の弁慶濠脇にある。
 この一帯には、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸かありました。明暦3年(1657)の大火の後、この地を拝領しました。紀伊徳川家は、徳川家康の十男頼宣に始まる家で、尾張家(九男義直)、水戸家(十一男頼房)と共に御三家と称されました。頼宣は、慶長8年(1603)常陸水戸藩主、ついで慶長14年(1609)駿河府中藩 主を経て、元和5年(1619)に紀伊和歌山藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地としました。紀伊徳川家は、以後、14代にわたって明治維新まで続きましたが、その中で、8代将軍吉宗と14代将軍家茂は、藩主から将軍の座についています,、石高はほぼ55万5000石でした。明治5年、、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町という町名になりました。
紀伊和歌山藩 徳川家屋敷跡 紀伊和歌山藩 徳川家屋敷跡 
赤坂見附交差点 弁慶濠 赤坂見附交差点 弁慶濠 
赤坂見附跡 赤坂見附跡 

青山通り(国道246号線)を上り、赤坂プリンスホテル脇にある。
赤坂見附跡 赤坂見附跡 

左側にある石垣は、城外郭門のひとつである赤坂御門の石垣の一部です。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため、「見附」とも呼ばれ、二つの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。
史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門 史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門 

赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。
明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されました。
三宅坂 三宅坂 
桜田門 警視庁 桜田門 警視庁 
井伊掃部頭邸跡(前加藤清正邸) 井伊掃部頭邸跡(前加藤清正邸) 

新宿通りの国会前交差点手前にある。
この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊木藩主加藤清正の屋敷でした,加藤家はニ代忠広の時に改易され、屋敷も没収されまLた。その後、近江彦根藩主井伊家か屋敷を拝領し、上屋敷として明治維新まで利用しています(歴代当主は、掃部頭を称しました)
幕末の大老井伊直弼は、万延元年(一八六〇)三月にこの屋敷から外桜田門へ向かう途中、水戸藩士等に襲撃されました
桜田門 警視庁 桜田門 警視庁 
桜田門 桜田門 

大手門田安門同様、枡形門の形式となっている。
桜田門から見た三宅坂方向 桜田門から見た三宅坂方向 
祝田橋交差点を渡る 祝田橋交差点を渡る 
日比谷交差点 日比谷交差点 

東京裁判を行った第一生命本社ビルである。
JR 有楽町駅 JR 有楽町駅 





 
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