赤穂義士 点描
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堀部安兵衛 仇討ちの碑 堀部安兵衛 仇討ちの碑 

赤穂義士で有名な、堀部(仇討ち時は中山姓)安兵衛の高田馬場での仇討ち跡である。早稲田大学北門の傍、水稲荷神社の参道で、甘泉園入口の手前にある。
堀部安兵衛 仇討ちの碑 堀部安兵衛 仇討ちの碑 
長松寺 荻生徂徠墓 長松寺 荻生徂徠墓 

長松寺は桜田通りの魚籃坂下交差点手前の左手にある。

荻生徂徠は、江戸中期の儒学者で、5代将軍の徳川綱吉にもしばしば儒学を講義した。
赤穂義士の処分について、治安を乱したとして重罰を加えるべきと言う意見と、忠義の士として顕彰すべきとの意見で幕府内の議論がまとまらない時、治安を乱した罪で死罪だが、武士の名誉を重んじた切腹を綱吉に建議したことでも有名。
長松寺 荻生徂徠墓 長松寺 荻生徂徠墓 

江戸時代中期の儒学者。字は茂郷、通称惣右衛門、徂徠は号である。寛文六年(一六六六)江戸に生まれた。十四歳から十三年間、父方庵に従って上総国長柄郡本納村に流寓の生活を送り、独学自習、将来の学問の基礎を築いた。元禄三年(一六九〇)江戸に戻り、柳沢吉保に用いられ、将軍綱吉にもしばしば儒学を講義するようになった。綱吉没後、日本橋茅場町に家塾「蘐園」を開いた。家学を重んじ、伊藤仁斎の復古学を批判し、古文辞学を大成した。その学問は経学のみでなく江戸後期の政治、経済、文学等に大きな影響を与えた。「論語徴」「明律国字解」「訓訳示蒙」「蘐園随筆」等多くの著書がある。将軍吉宗の諮問に応えて享保七年(一七二二)「政談」を幕府に献上した。享保十三年(一七二八)一月十九日六十三歳で死去した。
長松寺 荻生徂徠墓 長松寺 荻生徂徠墓 
長松寺 荻生徂徠墓 長松寺 荻生徂徠墓 

長松寺は桜田通りの魚籃坂下交差点を少し行った所の右手にある。隣に大きな念願寺があり、一見そちらが長松寺のように見える。
長松寺 荻生徂徠墓 長松寺 荻生徂徠墓 
メリーロード高輪 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) メリーロード高輪 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) 

都営高輪アパートの奥にあるが、これが「都営」と思うほどややけばけばしい色彩のアパート群である。
摩滅した「大石良雄等自刃ノ跡」の碑がなければ見落とすし、自刃跡地も一番奥なので分り難い。

この地については、細川藩中屋敷とする資料もある。「大石良雄外十六人忠烈の跡」碑によれば、下屋敷とあり、ここでは後者を採った。
メリーロード高輪 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) メリーロード高輪 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) 

メリーロード高輪 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) メリーロード高輪 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) 

都営アパートの奥にひっそりと泉岳寺る。

赤穂義士は四大名家に預けられた。大石内蔵助ら17名が預けられた細川藩は、彼らを忠義の士として遇し、預けられたことを家の名誉として切腹の場を保存してきた。一方で、六本木ヒルズにあった毛利支藩の長府藩では、赤穂義士を犯罪者として厳しく扱った、との逸話も残る。
メリーロード高輪 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) メリーロード高輪 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) 

大石良雄外十六人忠烈の跡

この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら十七人が預けられた肥後熊本藩(五十四万石)細川越中守下屋敷の一部である。赤穂事件とは、元禄十四年(一七〇一)三月十四日におこった殿中刃傷事件とその翌年十二月十四日の夜から十五日にかけての吉良邸討ち入り及びその処分など一連の事件をいう。当時の藩主五代綱利は、十二月十五日老中稲葉丹後守正往(下総佐倉藩主)から大石内蔵助外十六人御預けの命を受けると、総勢八七五人に十七挺の駕龍と予備として五挺の駕龍を用意させ、大目付仙石伯耆守久尚の屋敷に送った。引渡を受けたのは午後十時頃で、この地に到着したのは午前二時過ぎであった。この様な大部隊を繰出したのは、藩の威武を示すとともに上杉家が親の仇たる四十六士を襲撃するかもしれないとの噂があったためである。細川藩の威力と識見を以て優遇し、御預四家のうちで即日引見したのは細川家だけであった。
 元禄十六年(一七〇三)二月四日午後二時、上使の御目付荒木十左衛門政羽とお御使番久永内記信豊から切腹を申渡し、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べて御請した。家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた細川家は十七人の切腹に十七人の介錯人を選定した。切腹の場所は大書院舞台側、大番院上の間の前庭で、背後に池を負った位置である。切腹の座には畳三枚を敷き並べ(細川家以外は二枚)その上に木綿の大風呂敷を展べ、背後も左右も白の幔幕を張り廻らした。大石内蔵介は安場一平の介錯で切腹した。大石良雄外十六人は、浅野家の菩提寺泉岳寺に葬られている。
メリーロード高輪 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) メリーロード高輪 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) 

赤穂義士史跡碑
正義を愛し名節を重んじる者は暫くここに歩を停めよ
此処は徳川時代細川邸の跡 実に赤穂義士の総帥大石良雄等十七名が元禄十六年二月四日壮烈な死を遂げた現場である
メリーロード高輪 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) メリーロード高輪 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) 

大石内蔵助以下16名の名前と享年が書かれている。
メリーロード高輪 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) メリーロード高輪 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) 

庭であるが、特に変わった様子もない。
メリーロード高輪 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) メリーロード高輪 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) 



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