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大坂城公園 西の丸庭園 冠木門の入口
入口は庭園の東南角にあり、東の遊歩道にそって北上する。
大阪市に居住している65歳以上の人は、住所明示の上で無料である。「市民」でなければ府民であっても割引はない。 |
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大坂城公園 西の丸庭園
古<豊臣時代の西の丸には多くの御殿が建ち並び、秀吉没後、慶長4年(1599年)には秀吉の正室「北の政所」が一時住み、その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦まで、徳川家康が移り住んたことが知られています。 徳川時代に入り、元和5年(1619年)、内藤信正が初代の「大坂城代」となり、翌元和6年(1620年)すっかり築き直しました。その後、明治維新(1868年)まで、70代の城代が交代で城の管理にあたりました。
明治以降は軍用施設として使用されていましたが、徳川時代の「西の丸」跡地と、その南側に続いていた「城代屋敷」跡地などを一つにまとめ、昭和40年(1965年)西の丸庭園として開園しました。 |
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大坂城公園 西の丸庭園 東の遊歩道に沿って北上 |
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大坂城公園 西の丸庭園から見える天守閣 |
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大坂城公園 西の丸庭園 大坂城代屋敷跡
現在の西の丸庭園の南側には江戸時代、幕府重職で大坂城の防衛や維持管理の最高責任者である大坂城代の屋敷(官邸)があった。
東向きの玄関は唐破風造りで、公務を行う広間や書院だけでなく、城代の妻子が居住する建物も備えており、本丸御殿に次ぐ規模の御殿であった。明治維新の際の火災で焼失。ここは城代屋敷の表門付近にあたる。 |
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大坂城公園 西の丸庭園 サクラ並木 |
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大坂城公園 西の丸庭園から見える天守閣
西の丸庭園からの石垣越しに見える天守閣は、多くの観光客が屯する本丸広場からとは違い、その美しさ、大きさが実感できる。 |
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大坂城公園 西の丸庭園 サクラ並木 |
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大坂城公園 西の丸庭園 北東角の高麗門
閉鎖されており、出入りはできない。 |
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大坂城公園 西の丸庭園 並木道を北の縁にそって西に進む |
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大坂城公園 西の丸庭園 重要文化財 焔硝蔵
徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は貞享2年(1685)に建造されたもの。焔硝蔵はそれ以前にも城内数か所にあったが、青屋口にあった土蔵造りの焔硝蔵は万治3年(1660)に落雷を受けて大爆発を起こし、また別の場所にあった半地下式の焔硝蔵も部材の腐食による建て直しがたびたびなされるなど、幕府は焔硝の有効な保管方法に苦慮していた。そうした課題を克服すべく、この焔硝蔵では耐火・耐久・防水に特に工夫がこらされ、床・壁・天井・梁【はり】をすべて花崗岩【かこうがん】とし、石壁の厚さは約2.4メートル、屋根の下は土で固められている。面積は約171.9平方メートル、高さは約5,4メートルで、こうした石造りの火薬庫はわが国では他に例がない。徳川時代の大坂城には、西日本における幕府の軍事拠点として、焔硝のほかにも大量の兵糧や武器武具が備蓄されていた。 |
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大坂城公園 西の丸庭園 重要文化財 焔硝蔵 |
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大坂城公園 西の丸庭園 大阪迎賓館
芝生広場に対しては裏の北側の風景である。 |
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大坂城公園 西の丸庭園 大阪迎賓館
中に入るためには靴を袋に入れて裸足になることが必要である。 |
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大坂城公園 西の丸庭園 西の遊歩道に沿って南下 |
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大坂城公園 西の丸庭園 重要文化財 千貫櫓
大手門に入った所で見た千貫櫓で、説明文は同じものである。 |
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大坂城公園 西の丸庭園
大坂城の大手口を守る重要な隅櫓である。西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができた。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620年)で、戦後の解体修理工事の際、墨書で「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかった。二の丸北西に現存する乾櫓と同様に大坂城最古の建造物で、いずれも工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州【こぼりえんしゅう】である。具体的な場所や規模は不明ながら、前身となる豊臣秀吉築城の大坂城にも千貫櫓はあり、さらにそれよりも前、織田信長が大坂を領していたころからも千貫櫓はあった。名称の由来に関しては、織田信長がこの地にあった大坂(石山)本願寺を攻めた際、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士たちの間で噂されたという逸話が残っている。面積は1階が約217.26平方メートル、2階が約162.95平方メートル、高さは約13.5メートルである。 |
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大坂城公園 西の丸庭園 冠木門の入口から見た天守閣 |