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大坂城(大坂城公園〜大手門〜西の丸公園)

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上町筋 馬場町交差点から大阪城公園へ 上町筋 馬場町交差点から大坂城公園へ 
大阪城公園 馬場町交差点 大阪城公園案内図 大坂城公園 馬場町交差点 大坂城公園案内図 
大阪城公園 馬場町交差点入口からみた天守閣 大坂城公園 馬場町交差点入口からみた天守閣 
大阪城公園 馬場町交差点入口 南外堀 大坂城公園 馬場町交差点入口 南外堀 

大坂城二の丸の南に位置する堀で、西が大手囗、東が玉造囗である。石垣の総延長は約2キロメートル、堀の最大幅は約75メートルあり、寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築第3期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。幕府の命令によって動員された大名は肥前佐賀藩鍋島家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家など57家。内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで七棟の隅櫓が建造された。櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残る。
大阪城公園 馬場町交差点入口 南外堀 大坂城公園 馬場町交差点入口 南外堀 
大阪城公園 馬場町交差点入口 南外堀 大坂城公園 馬場町交差点入口 南外堀 
大阪城公園 馬場町交差点入口 南外堀 熱中症計は警戒 大坂城公園 馬場町交差点入口 南外堀 熱中症計は警戒 

現在時刻は10:50で、熱中症計の温度は30.5℃、湿度は50%である。

谷町4丁目交差点では時刻は10:30で、熱中症計の温度は30.5℃、湿度は49%、警戒であった。温度、湿度共に変化はないが、谷町9丁目交差点のような青空ではなく、台風接近の雰囲気である。全体に蒸し暑くなってきて小休止とする。
大阪城公園 馬場町交差点入口 南外堀から見た大手門 大坂城公園 馬場町交差点入口 南外堀から見た大手門 

左から右へ石垣で覆われた道を上って行く。
大阪城公園 馬場町交差点入口 大阪歴史博物館、NHK 大坂城公園 馬場町交差点入口 大阪歴史博物館、NHK 

左端の角が青い建物は大阪歴史博物館で、その後がNHKである。
大阪城公園 馬場町交差点入口 生国魂神社お旅所跡 生国魂神社と大阪城 大坂城公園 馬場町交差点入口 生国魂神社お旅所跡 生国魂神社と大坂城 

 生国魂神社の歴史を文献資料でたどると、「日本書紀」孝徳天皇即位前紀(六四五)に「生国魂社の樹を伐りたまふ*…」とあるのが初出であり、これは難波宮造営のためと考えられている。また「天文日記」(一四三六〜五四)の記載からも、大坂(石山)本願寺に接して生国魂神社のあったことがわかる。難波宮や大坂本願寺はここ大坂城の近くにあったことが知られており、生国魂神社が古くよりこの辺りに祀られていたことがわかる。
 その後豊臣秀吉は、大坂城の築城に際して天王寺区生玉町の現在地に移築した。当時大坂城の大手門は生玉門と呼ばれていたという。
 このお旅所は、昭和七年(一九三二)に新築されたものであり、夏祭りの渡御祭に用いられた。

*:「伐り」の字が旧字のため代替
大阪城公園 大手門 大坂城公園 大手門 
大阪城公園 大手門 大坂城公園 大手門 
大阪城公園 大手門(高麗門) 大坂城公園 大手門(高麗門) 
大阪城公園 大手門 大坂城公園 大手門 

重要文化財 大手門

 城の正面を大手(追手【おって】)といい、その入口を大手口(追手口)、設けられた門を大手門(追手門)とよぶ。現存する大坂城の大手門は寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築工事のさいに創建された。正面左右の親柱【おやばしら】の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控柱【ひかえばしら】との間にも屋根を乗せた高麗門【こうらいもん】形式である。屋根は本瓦葺【ほんがわらぶき】で、扉や親柱を黒塗総鉄板張【くろぬりそうてついたばり】とする。開口部の幅は約5.5メートル、高さは約7.1メートル。親柱・控柱の下部はその後の腐食により根継【ねつぎ】がほどこされているが、中でも正面右側の控柱の継手【つぎて】は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。門の左右に接続する大手門北方塀・大手門南方塀も重要文化財に指定されている。 
大阪城公園 大手門(櫓門) 大坂城公園 大手門(櫓門) 

典型的な枡形門で、入って直角に曲がって次の門がある。
大阪城公園 大手門 大手口枡形の巨石 大坂城公園 大手門 大手口枡形の巨石 
大阪城公園 大手門 大手口枡形の巨石 大坂城公園 大手門 大手口枡形の巨石 

 枡形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、敵の進入を食い止める役割を果たした。築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、大坂城の大手口枡形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。大手門をくぐって正面に位置する大手見付石【おおてみつけいし】は、表面積が約29畳敷(47.98平方メートル)で城内第4位、左の大手二番石【おおてにばんいし】は約23畳敷(37.90平方メートル)で第5位、右の大手三番石【おおてさんばんいし】は約22畳敷(35.82平方メートル)で第8位、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島【しょうどしま】と推定されている。現存する大坂城の遺構は豊臣時代のものではなく、元和6年(1620)から約10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。この個所は当初肥後熊本藩主加藤忠広【かとうただひろ】が築き、のちに筑後久留米藩主有馬豊氏【ありまとようじ】が改築した。
大阪城公園 大手門を通り抜ける 大坂城公園 大手門を通り抜ける 
大阪城公園 重要文化財 千貫櫓 大坂城公園 重要文化財 千貫櫓 

大手門から見ると木立の奥にあって見難いが、西の丸庭園だと間近に見ることができる。
大阪城公園 重要文化財 千貫櫓 大坂城公園 重要文化財 千貫櫓 

 大坂城の大手口を守る重要な隅櫓である。西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができた。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620年)で、戦後の解体修理工事の際、墨書で「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかった。二の丸北西に現存する乾櫓と同様に大坂城最古の建造物で、いずれも工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州【こぼりえんしゅう】である。具体的な場所や規模は不明ながら、前身となる豊臣秀吉築城の大坂城にも千貫櫓はあり、さらにそれよりも前、織田信長が大坂を領していたころからも千貫櫓はあった。名称の由来に関しては、織田信長がこの地にあった大坂(石山)本願寺を攻めた際、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士たちの間で噂されたという逸話が残っている。面積は1階が約217.26平方メートル、2階が約162.95平方メートル、高さは約13.5メートルである。
大阪城公園 公園内を北上 大坂城公園 公園内を北上 
大阪城公園 西の丸庭園 冠木門の入口 大坂城公園 西の丸庭園 冠木門の入口 

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