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上町筋 法円坂交差点で左折、難波宮跡公園へ |
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上町筋 法円坂交差点で左折、難波宮跡公園へ |
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上町筋 法円坂交差点で左折、難波宮跡公園へ
今から1370年ほど昔、飛鳥時代という時代じゃが、この場所になにわ宮という宮殿がつくられて、わが国の首都になったのじゃ。
最初につくられたなにわ宮は、わが国で最初の本格的な宮殿だったのよ。中心部の両側には八角形の2階建ての建物が建てられていて、それは立派な宮殿だったのよ。
60年ほど前から発掘調査が続けられて、立派な宮殿の姿がわかってきたのじゃ。タイルや石で地面に建物の位置を表しているんじゃ。
その後、なにわ宮は奈良時代に建て直されたんじゃが、その中で一番立派な建物を大極殿と言うんじゃ。国の儀式などが行われるとき、天皇がおでましになったんじゃ。 |
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難波宮跡公園 |
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難波宮跡公園
説明板がないので断定できないが、入口の案内にあった八角形の建物を模したものかもしれない。 |
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難波宮跡公園 |
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難波宮跡公園 大極殿跡 |
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難波宮跡公園 大極殿跡 |
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難波宮跡公園 大極殿跡 |
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難波宮跡公園 案内板 |
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難波宮跡公園 案内板
遺跡の概要
発掘調査により、難波宮跡は大きく分けて前・後2回の宮殿遺跡とそれ以前の建物跡があることが明らかにされてきた。
前期難波宮跡はすべての建物か掘立柱で、屋根に瓦を葺かない建物であった。7世紀の中頃、飛鳥で蘇我氏か亡されて後、都が難波に遷されてつくられた難波長柄豊碕宮がこれにあたると考えられている。天武天皇朱烏元年(686年)に、火災で全焼するまでつづいたと考えられる。この宮殿は最初の本格的な中国風の都といわれる大和の藤原宮に先行するもので、古代国家の成立期の貴重な遺構である。
後期難波宮は、奈良時代の神亀3年(726年)聖武天皇の時に造営された宮殿である。大極殿や朝堂院の中心建物には礎石が用いられ、屋根には蓮華文・唐草文・重圏文軒瓦などの瓦が葺かれていた。天平16年
(744年)にはここ難波宮が首都と定められたが、翌年再び平城宮へと遷された。
前後2時期の難波宮の遺跡のほか、それ以前の大規模な建物跡もほぽ全域で発見されている。港をひかえた難波の地は、5世紀以降外交・文化・経済・政治の要衝として栄えていたことがしのばれる。 |
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難波宮跡公園 大極殿跡 |
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難波宮跡公園
北の大極殿後の遺構を除けば南側は広い芝生公園で、大型犬を放し飼いにしたり、ゴルフのアプローチ練習をしたりと歴史公園としての利用はされていない。 |
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難波宮跡公園 大極殿跡 |
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難波宮跡公園 南出口を出て右折 |
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難波宮跡公園 南出口 史跡 難波宮跡碑
南出口の西側で柵沿いの木立の中にある。Google mapによれば、東側に朝堂院南門跡の遺構があるはずだが見つけられなかった。 |
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難波宮跡公園 南出口 史跡 難波宮跡碑
七世紀中頃、飛鳥から難波に遷都され、首都あるいは副都であった宮殿遺跡で、昭和二十九年以来、発掘調査で前後二時期の遺跡の全容が明らかにされつつある。 |
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上町交差点で右折、上町筋を北上 |
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上町筋 上町交差点 兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑
明治2年(1869)兵部大輔(ひょうぶだいゆう)に任ぜられ、近代陸軍兵制の確立に努力した。しかし不平士族の反感をうけ、同年9月京都で襲撃された。そのとき右脚に重傷をおったが、京都では適切な治療をうけられず、現在の碑の近くにあった浪華仮病院(大福寺から当所へ移転、同頂参照)で右脚切断の手術をうけたが、すでに手後れで敗血症のため死亡した。切断された脚は遺志により、師緒方洪庵夫妻の傍ら(北区竜海禅寺)に葬られている。 |
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上町筋を北上 難波宮跡公園
上町筋の東側は難波宮跡公園、西側は国立病院機構 大阪医療センターである。 |
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上町筋を北上 国立病院機構 大阪医療センター内 歩兵第三十七連隊 創立100周年 記念碑
大阪医療センターの敷地内にあり、立ち入ることは出来ない。 |
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上町筋 法円坂交差点で左折、中央大通へ |
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上町筋 法円坂交差点で左折、中央大通へ |
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中央大通を西進 国立病院機構 大阪医療センター |
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中央大通 谷町四丁目交差点
谷町四丁目交差点は中央大通と谷町筋との交差点である。 |
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地下鉄 谷町線 谷町四丁目駅 |