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京急/都営浅草線 泉岳寺駅〜赤穂義士祭 泉岳寺(山門前通り〜境内)

【関連サイト】   赤穂義士祭 自刃の遺跡巡り(泉岳寺、自刃四藩邸、荻生徂徠墓所)H241214(泉岳寺駅〜赤穂義士祭の泉岳寺H241214)

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京急/都営浅草線 泉岳寺駅 京急/都営浅草線 泉岳寺駅 

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【撮影記録】
平成29年 12月 14日 快晴
9:45〜12:45 12,500歩(概算 8.1km、地図上 7.3km)

年末定番の忠臣蔵のテレビを見ていたら5年ぶりに赤穂義士自刃の遺構巡りを思い立った。さすがに5年経つと泉岳寺の義士祭も変化し、浅野内匠頭夫妻の墓が墓所から外されており、土産物も抹茶入りとの混載だった赤穂の銘菓「しほみ(塩味)饅頭」が白のみとの併売になったうえ、新橋の銘菓切腹最中も売られていた。墓所の線香は以前と変わらず、10時前なのに墓所は煙っていた。腰痛の再発が心配で、慶應の三田キャンパスや六本木ヒルズの見物は控えめにせざるを得なかった。
泉岳寺は混雑しているのに、近くの細川藩邸跡は人気がないのも変な気がした。
第一京浜 泉岳寺交差点で右折、都道415号高輪麻布線へ 第一京浜 泉岳寺交差点で右折、都道415号高輪麻布線へ 

泉岳寺駅を出ると第一京浜と都道415号高輪麻布線が交差するT字路の泉岳寺交差点で、右手奥に泉岳寺の中門が見える。

都道415号高輪麻布線は魚籃坂、麻布十番を経て六本木一丁目交差点に向かう幹線であるが、平成27年に麻布界隈を麻布通りと名付けられた。
 都道415号高輪麻布線を西進、山門前通りへ 都道415号高輪麻布線を西進、山門前通りへ 
山門前通り 営業準備に忙しい露店街を進む 山門前通り 営業準備に忙しい露店街を進む 
赤穂義士祭の泉岳寺 中門 赤穂義士祭の泉岳寺 中門 

中門

 元来、泉岳寺には三門といって三つの門(楼門・中門・山門)がありましたが、現在は中門と山門のみが残っています。
 現在の中門は天保七年(一八三六年)三十五世大?梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和七年に大修理を施されています。
 「萬松山」の額は、中国明朝時代の禅僧・為霖道霈(いりんどうはい)による書です。
赤穂義士祭の泉岳寺 中門 赤穂義士祭の泉岳寺 中門 
赤穂義士祭の泉岳寺 中門 赤穂義士祭の泉岳寺 中門 

切妻造、本瓦葺、一間一戸四脚門で、天保七年(一八三六)に再建されたものです。左右に袖塀を持ち、正面右手には通用門を持っています。また、番小屋を配し、禅宗寺院の中門の様式の中でも格式の高い様式を残した門です。
赤穂義士祭の泉岳寺 営業準備に忙しい参道を進む 赤穂義士祭の泉岳寺 営業準備に忙しい参道を進む 
赤穂義士祭の泉岳寺 山門 赤穂義士祭の泉岳寺 山門 

入母屋造、本瓦葺、三間一戸八脚門で、天保年間に再建されたものです。楼上に極彩色の十六羅漢像が安置され、階下の天井には銅彫大蟠龍がはめ込まれています。区内に残された楼門建築は、他に増上寺三解脱門があるだけで、貴重な遺構です。
赤穂義士祭の泉岳寺 山門 赤穂義士祭の泉岳寺 山門 

山門

 この門は天保三年(一八三二年)、三十四世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に再建されたものです。

 二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめ込まれています。

 「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野釣庵による書です。
赤穂義士祭の泉岳寺 山門脇 大石内蔵助良雄像 赤穂義士祭の泉岳寺 山門脇 大石内蔵助良雄像 

山門の右脇にあり、高い台座の上に大石内蔵助良雄の像がある。
赤穂義士祭の泉岳寺 参道を進み本堂へ 赤穂義士祭の泉岳寺 参道を進み本堂へ 

桃色の義士祭の幟、黄色の提灯と華やかな境内で、本来は厳粛な墓参りなのに、と思わないことはない。
赤穂義士祭の泉岳寺 本堂 赤穂義士祭の泉岳寺 本堂 

本堂の後ろの崖の上の二本榎通り(メリーロード高輪)に東海大付属中高校の校舎があり、その道路の反対側に大石内蔵助が自刃した細川家藩邸跡がある。
崖には細道があり、東海大付属の生徒が泉岳寺の横を通って通学している姿が見られる。
赤穂義士祭の泉岳寺 本堂 赤穂義士祭の泉岳寺 本堂 


 当萬松山泉岳寺は、慶長十七年(一六一二)徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚(一五四六〜一六二一)を迎えて開山となした。宗関和尚は永平寺の道元禅師によって開かれた曹洞宗の第四代瑩山禅師開創の総持寺の門派である太平山大中寺(栃木県)の十一世建室宗寅和尚(義元の実弟)の高弟であり、今川義元の孫と云われる人物で、度々登城を請われ法問を聴取されたと伝えられている。当寺の萬松山は松平の松より、「松萬代に栄ゆる」の意から、寺号泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと旧梵鐘の銘に記されている。(以下略)
赤穂義士祭の泉岳寺 本堂の左から赤穂義士の墓所へ 赤穂義士祭の泉岳寺 本堂の左から赤穂義士の墓所へ 

本堂の左から参道を歩き、突き当り手前で右折する。
赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 
赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 瑶池梅 赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 瑶池梅 

義士の墓守をしていた堀部明海法尼が瑶泉院から賜った鉢植えの梅を移植したと伝えられています。
赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 瑶池梅 赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 瑶池梅 

浅野長矩公の後室 瑶泉院殿 堀部妙海尼に賜りし鉢植の梅 瑶池梅と称し、妙海尼手づから此の地に植えしものなり
赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 血染の梅、血染の石 赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 血染の梅、血染の石 

血染の梅
血染の石

 浅野内匠頭が、田村右京大夫邸の庭先で切腹した際、その血かかかったと伝えられている梅と石です。
 赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 首洗い井戸 赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 首洗い井戸 

吉良上野介義央の首をこの井戸にて洗い以って主君の墓前に供う
 赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 首洗い井戸 赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 首洗い井戸 

首洗い井戸

 義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告をしたところから「首洗い井戸」と呼ばれています。
赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 義商 天野屋利兵衛浮図 赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 義商 天野屋利兵衛浮図 

「天野屋利兵衛は男でござる」のセリフで知られる天野屋利兵衛は、大坂に実在した商人だが、赤穂義士の武器調達をしたという史実はない。

浮図は浮屠とも書き、卒塔婆のことである。
赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 墓所門 赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 墓所門 

切妻造、本瓦葺、一間一戸棟門で、もとは赤穂藩浅野家の鉄砲州上屋敷(現中央区)の裏門とLて建築されたものです。大石良雄が屋敷を訪れる際によく出入りした門といわれ、明治初年に取り払われる際に、この場所に移築されました。大名屋敷の江戸藩邸門の様式を残す遺構として貴重です。



 
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