 |
都道415号高輪麻布線 魚籃坂を下る  |
 |
都道415号高輪麻布線 魚籃坂 魚籃寺  |
 |
都道415号高輪麻布線 魚籃坂 魚籃寺  |
 |
都道415号高輪麻布線 魚籃坂を下る  |
 |
都道415号高輪麻布線 魚籃坂を下る 
坂の中腹に魚籃観音を安置した寺があることから名付けられた。 |
 |
都道415号高輪麻布線 魚籃坂を下る  |
 |
魚籃坂下交差点で右折、桜田通りへ  |
 |
桜田通り(国道1号) 長松寺 荻生徂徠墓 
赤穂義士の吉良邸討ち入り後、その処分をめぐって幕府内の意見が割れた。主君の仇を討った忠義の士として助命論の声も高かった。それに対し、荻生徂徠は浅野内匠頭の処刑は法に基づくものであり、吉良邸討ち入りは法に背くものである、として処刑ではあるが、名誉刑の切腹とすることで関係者の体面を損なうことなく処理をしたことで知られる。 |
 |
桜田通り(国道1号) 長松寺 荻生徂徠墓 
江戸時代中期の儒学者。字は茂郷、通称惣右衛門、徂徠は号である。寛文六年(一六六六)江戸に生まれた。十四歳から十三年間、父方庵に従って上総国長柄郡本納村に流寓の生活を送り、独学自習、将来の学問の基礎を築いた。元禄三年(一六九〇)江戸に戻り、柳沢吉保に用いられ、将軍綱吉にもしばしば儒学を講義するようになった。綱吉没後、日本橋茅場町に家塾「?園」を開いた。家学を重んじ、伊藤仁斎の復古学を批判し、古文辞学を大成した。その学問は経学のみでなく江戸後期の政治、経済、文学等に大きな影響を与えた。「論語徴」「明律国字解」「訓訳示蒙」「?園随筆」等多くの著書がある。将軍吉宗の諮問に応えて享保七年(一七二二)「政談」を幕府に献上した。享保十三年(一七二八)一月十九日六十三歳で死去した。 |
 |
桜田通り(国道1号) 長松寺 荻生徂徠墓 
長松寺は桜田通りの魚籃坂下交差点を少し行った所の右手にある。隣に大きな忍願寺があり、一見そちらが長松寺のように見える。 |
 |
桜田通り(国道1号) 長松寺 荻生徂徠墓  |
 |
桜田通り(国道1号) 長松寺 荻生家墓所  |
 |
桜田通り(国道1号) 長松寺 荻生徂徠墓 
荻生徂徠(寛文六年(一六六六)−享保十三年(一七二六))の墓
名は雙松、字は茂卿、通称惣右噺門、徂徠はその号であり、物部氏の出を称したところからしばしば物茂卿と自署した。 徂徠は徳川時代の最大の儒者の一人であり、大東の文章我を俟ってはじめて興ると自ら豪語したのは必ずしも誇張ではない。彼の学問は日本儒学史に一大転換をもたらしただけでなく、清朝の儒者からも高い坪価を受けた。 〔学問の特色〕 父方庵の赦免によって南総から江戸に戻り、元禄九年(一六九六)柳沢吉保に仕えて、五代将軍綱吉の知遇を得て儒学を講じた。その頃から早くも徂徠は中国語の会話に関心を持っていたが、言語の構造の歴史的変遷に着目する彼の方法はやがて「古文辞学」に結晶し、享保以後朱子学にたいする体系的批判の展開となって、学会に大きな衝撃を与えた。江戸後期の経学は朱子学者を含めて、積極、消極両面で徂徠の影響なしには考えられない。徂徠が綱吉没後、日本橋茅崎町に開いた私塾は地名にちなんで「?園 」と名付けられたが、これはまた徂徠学派の別名ともなった。(以下略) |
 |
桜田通り(国道1号) 長松寺 荻生家墓所案内 
以前はなくて墓銘を見ながら荻生徂徠の墓を探したが、丁寧な案内が付けられている。 |
 |
桜田通り(国道1号) 長松寺 荻生徂徠墓 
荻生徂徠は、江戸中期の儒学者で、5代将軍の徳川綱吉にもしばしば儒学を講義した。 赤穂義士の処分について、治安を乱したとして重罰を加えるべきと言う意見と、忠義の士として顕彰すべきとの意見で幕府内の議論がまとまらない時、治安を乱した罪で死罪だが、武士の名誉を重んじた切腹を綱吉に建議したことでも有名。 |
 |
桜田通り(国道1号) 長松寺 荻生徂徠墓 
墓の裏面には墓誌が書かれているが、全く読むことができない。 |
 |
桜田通り(国道1号)を北東に進む  |
 |
桜田通り(国道1号) 右折して幽霊坂を上る 
長松寺の少し先に幽霊坂の標識があり、そこから坂を上る。標識は道路から少し奥まった所にあり、気を付けないと通り過ぎる。 |
 |
桜田通り(国道1号) 右折して幽霊坂を上る 
ゆうれいざか
坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く七か所ほどもある。
この一帯は寺町で、坂を上ると伊皿子坂交差点から田町駅に向かう尾根伝いの聖坂に出る。
ちなみに乃木坂も幽霊坂と言われていたが、乃木大将の自刃後に乃木坂と言われるようになった。 |
 |
幽霊坂を上る  |
 |
幽霊坂 中腹にある玉鳳寺  |
 |
幽霊坂 中腹にある玉鳳寺 
この一帯は有名な寺町で、玉鳳寺を始め、多くの寺が並ぶ |
 |
幽霊坂 中腹にある玉鳳寺 山門左にある御化粧延命地蔵尊 
実際に御化粧を施されているわけではないが、真っ白な地蔵尊である。 |
 |
幽霊坂を上る 
幽霊坂上手前の赤いカラーコーンと白い車の間に福島正則の供養塔がある。 |
 |
幽霊坂上手前の正覚院標識で右折  |
 |
幽霊坂上手前の正覚院 福島正則供養塔 
関ヶ原の戦いで広島藩主となった福島正則は改易され、後に末子の福島正利が3112石の旗本として存続が許された。しかし、正利も子供がなく廃絶となった。その後孫にあたる正勝が2000石で召し出され、旗本として存続した。
正覚院は、福島正利が開基で正覚院というのは正利の院号である。右が福島正則の供養塔で、左が正利の墓である。福島正則の墓は信州小布施の岩松院にある。
正覚院には以上の説明がなされた案内板はなく、福島正則ゆかりの寺との宣伝もない。供養塔にわずかに「寛永」の文字が残る。 |
 |
幽霊坂 突き当りで左折、聖坂へ 
聖坂は、細川家下屋敷がある二本榎通りが伊皿子交差点から改称したもので、尾根伝いに平坦な道が続き、三田間近で坂となる。 |
 |
幽霊坂 突き当りで左折、聖坂へ  |