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聖坂〜慶應仲通り〜水野家藩邸跡

【関連サイト】   赤穂義士祭 自刃の遺跡巡り(泉岳寺、自刃四藩邸、荻生徂徠墓所)H241214(幽霊坂〜亀塚公園〜三田二丁目交差点
赤穂義士祭 自刃の遺跡巡り(泉岳寺、自刃四藩邸、荻生徂徠墓所)H241214(水野家中屋敷跡〜芝五丁目交差点〜薩摩藩邸遺構)

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聖坂 幽霊坂出口のすぐ先にある亀塚公園 聖坂 幽霊坂出口のすぐ先にある亀塚公園 
聖坂 亀塚公園 芝生広場 聖坂 亀塚公園 芝生広場 

後方の高層ビルは第一京浜に面している住友不動産三田ツインビル西館である。
聖坂 亀塚公園 芝生広場 聖坂 亀塚公園 芝生広場 

見事に黄葉したイチョウの巨木であるが、さすがに12月中旬であり、葉も精気に乏しい。
聖坂 亀塚公園 亀塚 聖坂 亀塚公園 亀塚 

 古くから坪井正五郎博士等によって古墳と指摘され、広く知られていましたが、詳細な学術調査が行なわれず、古墳であると決めることはできませんでした。昭和四五・四六年、港区教育委員会が主体となり、慶応義塾大学が測量調査および発掘調査を実施した結果、この塚が古墳時代以後に築造されたことが明らかとなりました。さらに平成一四・一七・一八年に、港区教育委員会が亀塚と周辺の調査を実施し、亀塚の構築状況を明らかにしました。
しかし、埋葬施設や周濠の存在は明確ではなく、依然として古墳と断定することはできていませんが、その可能性は高いと考えられます。
 また、平安時代に書かれた「更級日記」に見える竹芝寺の伝説地とも伝えられ、文明年間(一四六九〜八七)には、太田道灌が斥候(ものみ)を置いたと伝えられています。
江戸時代には、この地を屋敷地としていた沼田城主土岐頼煕が、これらの旨を記した「亀山碑」を頂上に建て、現在に伝えています。
聖坂 亀塚公園 亀塚 聖坂 亀塚公園 亀塚 
聖坂 亀塚公園 公園付近沿革案内 聖坂 亀塚公園 公園付近沿革案内 

亀塚公園は緑色の一画で、茶色は寺社(ほとんどが寺地)である。一帯がいわゆる寺町であることがよく分かる。

 この公園付近は、江戸時代、上野沼田藩土岐家の下屋敷で、明治維新後は皇族華頂宮邸となった。
 ここは三田台から高輪、ハツ山に及ぶ一連の丘陵地の東端で、邸内には老木、大樹が茂り、遥かに房総の山々を一望のもとに見晴らす勝地であった。西側の道路は古奥州街道にあたり、江戸開府前の主要道路であった。この地は、平安時代、菅原孝標の女が著した「更級日記」に紹介された竹芝皇女の物語の遺跡といわれ、亀塚の伝説が残されている。塚は古墳とみられるが、人工の築山であることのほか、その証拠はえられてない。華頂宮が廃家となり、一時内大臣官邸となったが、昭和8年建物はこわされ、さらに昭和20年戦災をうけ、昔の趣きを失った。
昭和27年11月3日港区立公園として開園した。
聖坂 亀塚公園 界隈案内図 聖坂 亀塚公園 界隈案内図 
聖坂 フランス公使宿館跡 済海寺 聖坂 フランス公使宿館跡 済海寺 
聖坂 フランス公使宿館跡 済海寺 聖坂 フランス公使宿館跡 済海寺 
聖坂 フランス公使宿館跡 済海寺 聖坂 フランス公使宿館跡 済海寺 

東京都指定旧跡 最初のフランス公使宿館跡

 済海寺には安政五年(一八五八)に締結された仏修好通商条約により、翌六年八月一二日にフランス公使館が設置されました。初代駐日公使ド・べルクール(着任時は総領事)がここに駐在しました。公使館としては書院、庫裏の全部、慶応二年(一八六六)一二月に玄関、門、門番所などが増設され、明治三年(一八七〇)四月一〇日に公使館が引き払われるまで使用されました。
 済海寺は明治年間に敷地が分割され、かつてのフランス公使館の敷地は、現在の済海寺本堂敷地とその西隅の地域となります。
聖坂 フランス公使宿館跡 済海寺 聖坂 フランス公使宿館跡 済海寺 
聖坂 クウェート大使館 聖坂 クウェート大使館 
聖坂 クウェート大使館 聖坂 クウェート大使館 

仏舎利塔に見える飾りが付いているので東南アジアの施設かと思ったが、中東のクウェート大使館だった。
聖坂 クウェート大使館 界隈案内図 聖坂 クウェート大使館 界隈案内図 
 聖坂 普連土学園 中学校・高等学校 聖坂 普連土学園 中学校・高等学校 

1887年(明治20年)、当時アメリカ合衆国に留学中だった内村鑑三と新渡戸稲造の助言で、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアのキリスト友会(クエーカー)の婦人伝道会が女子教育を目的として創設した。現在でも日本国唯一のキリスト友会の教育機関である。校名の「普連土」は、津田仙(津田塾大学の創立者津田梅子の父)が、「普(あまねく)世界の土地に連なる」、転じて「この地上の普遍、有用の事物を学ぶ学校」であるようにとの思いから命名したとされる。

明治20年創設の女子校である。普連土学園は尾根沿いにあるため、幼稚園に入るまで生まれ育ち、祖父母がいた桜田通りの芝豊岡町からよく見えた。ちなみに昭和30年代前半までは、とんびがよく飛んでいた。
聖坂 阿含宗 関東別院 聖坂 阿含宗 関東別院 
聖坂を下る 聖坂を下る 

坂ではあるものの平坦な道を歩いてきたが、ここから急な下り坂となる。

聖坂は、古代、中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所があったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある。
聖坂を下る 聖坂を下る 
聖坂 突き当りの交差点で右折、三田通りへ 聖坂 突き当りの交差点で右折、三田通りへ 
三田三丁目交差点で左折、三田通りへ 三田三丁目交差点で左折、三田通りへ 

都道301号(白山祝田田町線)は始点である札の辻交差点から、桜田通りが合流する三田二丁目交差点を経て済生会病院、三田国際ビルがある三田二丁目までを三田通りと言う。
三田通り 三田二丁目交差点で右折、慶応仲通り商店街へ 三田通り 三田二丁目交差点で右折、慶応仲通り商店街へ 

三田二丁目交差点で左から桜田通り(国道1号)が合流する。
三田通り 三田二丁目交差点で右折、慶応仲通り商店街へ 三田通り 三田二丁目交差点で右折、慶応仲通り商店街へ 
慶応仲通り商店街を東進 慶応仲通り商店街を東進 

車1台がやっとの狭い道で、両側に昼は定食、夜は居酒屋となる店が並び、慶応大生やサラリーマン御用達の商店街である。
慶応仲通り商店街を東進 慶応仲通り商店街を東進 
慶應仲通り 突き当りの右角に水野家藩邸跡 慶應仲通り 突き当りの右角に水野家藩邸跡 

突き当り右の壁沿いにあり、居酒屋や定食屋のゴチャゴチャした所にあって見つけ難い。

 この地周辺は元禄赤穂事件で、吉良邸討ち入りに加わった赤穂浪士四七人のうち九人が預けられた岡崎藩水野家芝三田屋敷の一部です。水野家は後に天保の改革を主導する水野忠邦を輩出した譜代大名で、水野監物忠之(一六六九ー一七三一)は第四代藩主です。元禄一五年一二月一四日夜の吉良邸討ち入り後、赤穂浪士はこの水野邸のほか、伊予松山藩松平家、熊本藩細川家、長門長府藩毛利家に預けられました。一二月一五日、御預けが決まると、水野家の江戸詰め藩士一五○余人と留守居小川九郎右衛門を請取人として仙石伯耆守邸に遣わし、間重治郎光興ら九人を預かり、この屋敷に収容しました。翌一六年二月四日、九人はこの屋敷で自刃し、武士の本懐を遂げました。
 水野家は細川家とともに赤穂義士の取扱いが丁寧で世評もよく、「細川(越中守網利)の水の(水野監物)流れは清けれど、ただ大海(毛利甲斐守網元)の沖(松平隠岐守定直)ぞ濁れる」という落首がその状況を伝えています。
慶応仲通り商店街 東出口の田町駅西口交差点で左折、第一京浜へ 慶応仲通り商店街 東出口の田町駅西口交差点で左折、第一京浜へ 

水野監物邸跡の案内板から慶応仲通りは右斜めに曲がり、突き当りが田町駅西口交差点である。
田町駅西口交差点で左折、第一京浜へ 田町駅西口交差点で左折、第一京浜へ 



 
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