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市ケ谷駅〜東郷元帥記念公園〜靖国神社南門交差点

【関連サイト】   「坂の上の雲」の時代を巡る 千代田区ウォークH240303(一番町交差点〜東郷元帥記念公園〜東郷公園入口交差点)

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東京メトロ 有楽町線 市ケ谷駅 東京メトロ 有楽町線 市ケ谷駅 

市ケ谷駅〜東郷元帥記念公園〜靖国神社南門交差点〜靖国神社(拝殿〜大村益次郎像〜大鳥居)〜北の丸公園(田安門〜近衛師団歩兵第一連隊記念碑〜近衛師団歩兵第二連隊記念碑〜吉田茂像〜科学技術館〜近衛師団庁舎遺構)〜東御苑(梅林坂〜二の丸公園〜大手門)〜和田倉親水公園〜丸の内仲通り〜有楽町駅

【撮影記録】
平成27年 3月 5日 快晴
10:40〜12:35 10,000歩(概算 7.0km 地図上の距離 6.2km)

三寒四温で暖かい日を狙って歩いた。距離も短いせいもあり、腰痛も出ずに歩けたが、特に東御苑の梅林坂が見事だった。
靖国通り 市ケ谷駅交差点で左折 靖国通り 市ケ谷駅交差点で左折 

JR市ケ谷駅前の三叉路で左折する。斜め右に進むと有楽町線が地下を走り、日テレ通りを経て麹町に至る。
交差点を曲がってすぐ左に小公園があり、市ヶ谷御門橋台の石垣石などがある。
靖国通り 坂を上って東進 靖国通り 坂を上って東進 
靖国通り 東郷公園入口交差点 界隈案内図 靖国通り 東郷公園入口交差点 界隈案内図 
靖国通り 東郷公園入口交差点で右折、東郷通りへ 靖国通り 東郷公園入口交差点 界隈案内図 
靖国通り 東郷公園入口交差点で右折、東郷通りへ 靖国通り 東郷公園入口交差点 界隈案内図 

片道1車線の狭い道である。
東郷通り 東郷公園前交差点角で東郷公園へ 東郷通り 東郷公園前交差点角で東郷公園へ 
東郷通り 東郷公園前交差点角で東郷公園へ 東郷通り 東郷公園前交差点角で東郷元帥記念公園へ 

日露戦争でロシアのバルチック艦隊を壊滅させ「東洋のネルソン」と称された東郷平八郎が、明治14年から53年間住んだ邸宅跡が現在の東郷元帥記念公園である。公園の中央には、邸宅の玄関にあったと伝えられる石造りのライオン像が残っている。
東郷元帥記念公園 入口 町名由来 三番町 東郷元帥記念公園 入口 町名由来 三番町 

 江戸城に入った徳川家康は、城の内側の守りを固めるために、この一帯に「大番組」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。
 江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。また、御厩谷坂の坂下から西に延びる谷筋には、かつて幕府の厩(馬小屋)があったと伝えられ、江戸城のお堀端近くの警傭を武士たちがしっかり固めていた様子が想像できます。
 寛政五年(1793)塙保己一が、この地に幕府の許可を得て和学講談所を開きました。保己一はわが国の古文献を集めた『群書類従』という書物の編纂で知られる学者です。幕末の兵学者村田蔵六(のちの大村益次郎)もこの地に蘭学の鳩居堂を開きました。さらに明治十年(1877)には、漢学者三島中洲が二松学舎(のちの二松学舎大字)を開くなど、文教の気風が受け継がれます。
 明治になると、かって武家屋敷であったところは、伯爵・子爵などの華族や政府役人の邸宅地となりました。
 日露戦争の折、日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎も、明治十四年(1881)から昭和九年(1834)までの五十三年間を過ごしています。邸宅跡は彼の事跡を記念して東郷元帥記念公園になり、四番町との境の坂は「東郷坂」と命名されています。
  また、『 東綺譚』で有名な永井荷風や、『武蔵野』の国木田独歩などの文学者も三番町の住人でした。与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹も一時この地に住み、雑誌『明星』を創刊しました。
 錚々たる人物の頗ぶれがそろう三番町です。国政の中心に近く、落ち着いた町並みを残したこの地だったからこそ、彼らに愛されたのでしょう。
東郷元帥記念公園(東郷元帥邸跡部分) 東郷元帥記念公園(東郷元帥邸跡部分) 

当公園は当初関東大震災の復興計画により上六公園として昭和四年七月最下段の部分が開園された。当時東郷平八郎元帥邸が隣接しており、同元帥の没後東郷元帥記念会より寄付を受けその地形地物を活かして造成され昭和十三年十一月東郷元帥記念公園として開園した。

普通の公園で、東郷元帥の名残はない。
東郷元帥記念公園(東郷元帥邸跡部分) 満開の寒桜 東郷元帥記念公園(東郷元帥邸跡部分) 満開の寒桜 
東郷元帥記念公園(上六公園部分) 東郷元帥記念公園(上六公園部分) 

段差のある二つの公園を階段で結んだ構造になっており、下は普通の公園で、上は児童公園風で隣接する幼稚園児の遊び場になっている。
東郷元帥記念公園(上六公園部分) 満開の寒桜 東郷元帥記念公園(上六公園部分) 満開の寒桜 
東郷元帥記念公園(上六公園部分)を出て左折、番町学園通りへ 東郷元帥記念公園(上六公園部分)を出て左折、番町学園通りへ 
番町学園通りを東進 九段小学校、九段幼稚園 番町学園通りを東進 九段小学校、九段幼稚園 

東郷元帥記念公園に隣接している。
番町学園通りを東進 大妻女子大 図書館 番町学園通りを東進 大妻女子大 図書館 
番町学園通りを東進 マンションが並ぶ 番町学園通りを東進 マンションが並ぶ 
番町学園通り 交差点で左折、大妻通りへ 番町学園通り 交差点で左折、大妻通りへ 

交差点角では工事が行われているが、地図によれば大妻学院の体育館である。
大妻通りを北上 大妻女子大、短大 大妻通りを北上 大妻女子大、短大 
大妻通りを北上 佐野善左衛門宅跡 大妻通りを北上 佐野善左衛門宅跡 

 標識の後ろ側、大妻学院の辺りには、元禄十一年(一六九八)から、旗本佐野家の屋敷がありました。佐野家は、禄高五〇〇石で、代々、江戸城の警備を勤めていました。天明四年(一七八四)三月二十四日、ときの当主佐野善左衛門政言は、江戸城中之間において、老中田沼意次の子で若年寄の田沼山城守意知に斬りつけました。田沼意知は傷がもとで四月二日に死去し、佐野政言も翌日切腹を命じられ、御家断絶となりました。しかし、世間の人々からは「世直し大明神」とあがめられました。また、佐野家の屋敷には桜の名木があり、番町の名物として知られていました。
大妻通りを北上 御厩谷坂 大妻通りを北上 御厩谷坂 

この坂を御厩谷坂といいます。『新撰東京名所図会』には「一番町と上六番町との間、すなわち井伊家邸前より南の方に係れリ。厩谷もと御厩谷という。むかし徳川将軍家の厩舎ありしに因リ此の名あり。」と記されています。また、『新編江戸志』にも「今も紅梅勘左衛門殿やしきに御馬の足洗いし池残りてあるなりというと見えたり」ともかかれています。御厩谷にかかる坂ということにより坂名となりました。
大妻通りを北上 御厩谷坂 大妻通りを北上 御厩谷坂 
大妻通りを北上 大妻学院本館 大妻通りを北上 大妻学院本館 
大妻通り 靖国神社南門交差点で靖国通りを渡り、靖国神社へ 大妻通り 靖国神社南門交差点で靖国通りを渡り、靖国神社へ 



 
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