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梅雨明け間近の京都散策R010717-18
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01祇園祭で賑わう京都散策R010717
JR東海のツアーで早朝6時27分品川発ののぞみで京都に向かう。7月の日照時間数時間の東京を出て、どんよりした曇り空が続くが、ようやく浜名湖で少し晴れてきて、京都では青空が見えてきた。参加した翌日フリーの1泊コースは参加者がわずか4名で、大型観光バスでノンビリ出来たが、日帰りコースは200人を越し、4台のバスでギュウギュウで、待遇格差のボヤキが聞こえた。9時を過ぎたばかりで交通規制もなく、巡行準備中の山鉾を見つつ堀川通をすんなり北上、堀川御池交差点で下車し、御池通を東進して地下鉄の烏丸御池駅を過ぎて京都市役所前駅の有料観覧席に着く。
10時に会場の案内放送で御池通一帯の交通規制開始が流れ、広い有料観覧席に期待の緊張感がみなぎる。ところが東外れの京都市役所に止まっている第1番の長刀鉾は一向に動こうとせず、不審の声があちこちで起こる。10時40分頃にようやく動き出したと思ったらすぐ止まり、先導のパトカーや運営専属のカメラマンも行き過ぎて戻る有様である。この間、なぜこのように遅れているのかの説明もなく、ようやく10:45から動いては止まり、を繰り返しつつ巡行が始まった。「くじとらず」と言われる長刀鉾が過ぎた後、唯一のからくりが人気の第2番蟷螂山以後は順調で、第3番芦刈山、第4番木賊山、第5番函谷鉾、第6番郭巨山と通り過ぎていく。開始が1時間ほど遅れたため、第4番木賊山で11時となり、昼食のために会場を出る11時半ではほとんど見れない、と思っていたら添乗員が調整して30分延長の12時発となった。これもわずか4人のツアーの特典である。
最初の長刀鉾以外は順調に巡行し、第7番の綾笠鉾、第8番伯牙山、第9番菊水鉾、第10番油天神山、第11番太子山、第12番保昌山、第13番鶏鉾と通り過ぎ、第14番白楽天山の後に少し待ち時間ができ、これをきっかけに会場を後にした。どの山鉾も華麗であるが、中国や日本の故事を題材にした山は華やかであり、長刀鉾のように長く倒れそうな鉾もハラハラして美しい。参加ツアーは昼食時刻を延長したが、延長できなかった多くのツアーは11時半頃から次々に退席し、有料観覧席もガラガラになってきた。
山鉾巡行の御池通を東進、京都市営地下鉄東西線の京都市役所前駅に向かう。駅チカのコトチカ御池を通り、東西線の二条城前駅で降り、二条城沿いに歩いて歴史的に有名な神泉苑内にある料亭平八で昼食を摂る。延暦13年(794)桓武天皇が平安京を造営する際、宮中の付属庭園として造られ、常に清泉が湧き出すことから「神泉苑」と名付けられた。弘法大師空海は、天長元年(824)日本中の旱天の際、勅命により善女龍王を勧請し祈雨の法を修した。以後、神泉苑は名僧が竸って請雨法を行う霊場となった。貞観5年(863)には初めて神泉苑で御霊会が執行され、それが後の祇園祭の発祥となった。食後に神泉苑内にある御池(法成就池)の龍王船、朱塗りの法成橋、善女龍王社などを見物する。
今宮神社は正暦5年(994年)、一条天皇の御世、平安以前より疫神を祀るこの地に疫病を鎮めるお社として創祀され、新たな社との名である「今宮」と号された。今宮神社は大徳寺の西隣で、北大路通の北にあり、南側の向いには建勲神社がある。今宮神社を解説した神職によれば、大寺院である大徳寺に比べれば知名度で劣るが、明治2年に織田信長を祀るために創建された建勲神社よりはるかに由緒ある神社だ、と言っていた。特別参拝として写真は撮れないが本社、疫社を参拝後、境内を色々と案内され、特に近くの八百屋の娘で後の徳川綱吉の生母となったお玉の「玉の輿」などを拝聴した。
烏丸通の六角通との交差点で右折すると頂法寺(六角堂)で、山門を挟んで六角通の向かいに鐘楼がある。境内は狭く、山門を入ると六角形をした本堂で六角堂と言われる。開基は聖徳太子で、四天王寺建立の用材を求めて太子がこの地を訪れた時、霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。また、本堂北の本坊は池坊と呼ばれ、室町時代以降、多くのいけ花の名手を輩出した所で、華道発祥の地として有名である。境内には太子堂、親鸞堂、聖徳太子沐浴の古跡などがあり、撮影禁止だが頂法寺会館の3階にいけばな資料館があり、生け花の歴史、資料などが展示され係員による解説がある。
頂法寺(六角堂)から観光バスで移動、二条通を東進し木屋町通で左折した所にがんこ高瀬川二条苑がある。おおよそ380年前の慶長十六年角倉了以によってつくられた当庭苑はその後、明治の元勲山県有朋の別荘、第二無鄰庵となり、現在は大岩邸として伝わり、がんこ高瀬川二条苑となっている。料亭の前には島津製作所創業記念資料館、高瀬川遺構がある。17日に八坂神社三基の御輿が氏子区域内を渡御するが、そのうち中御座神輿が木屋町通の高瀬川沿いを北上する。これを見物するため、早めの夕食をがんこ高瀬川二条苑でとり、店前で待機する。この見物も今回のツアーの目玉である。19時過ぎに高瀬川沿いの木屋町通を太鼓を鳴らしながら中御座の神輿渡御の行列が現れ、あっという間に狭い通り一杯に三若神輿会の担ぎ手などで溢れ、がんこ高瀬川二条苑前で神輿の担ぎ上げを行う。
02建仁寺〜六道珍皇寺〜清水寺〜高台寺〜八坂神社R010718
河原町駅から四条通を東進、鴨川に架かる四条大橋を渡ると、四条大橋交差点に京都四條南座があり、同一の場所で今日まで興行を続けてきたという意味では、日本最古の劇場である。祇園祭の飾り付けがされている商店街を東進、右折して花見小路通へ入る。花見小路通は由緒ある茶屋や料理屋が立ち並び、入ってすぐの一力亭は
祇園の中でも最も格式の高い、由緒のある「お茶屋」で、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」にも登場する歴史的なお茶屋である。和装小物の菊梅、その奥に京料理の西坂甘味処のぎおん徳と続き、七月授業日割表に「舞踊科 井上八千代先生」の札がかかる八坂女紅場学園がある。さらに一直線の花見小路通を南下すると、建仁寺の北門に至る。
建仁寺は建仁2年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として建立さtれた。北門から入り、一直線な参道を南下、本坊、法堂と進み、欧米の学生グループが熱心に見学をしている栄西禅師茶碑、開山堂 千光祖師栄西禅師入定塔、浴室と経て八坂通に出る。ホテル ザ セレスティン京都祇園の角で右折、直進して突き当りで左折して松原通を東進する。松原通を進み、左には小野篁卿旧跡、六道の辻の石柱がある六道珍皇寺の山門に着く。寺域は、古来からの葬送の地、鳥辺野の麓で入口付近に当たることから、冥界との境界「六道の辻」と称され、お盆に帰る精霊は必ずここを通るともされた。昼は朝廷、夜は閻魔庁の役人として仕えた小野篁が両者の行き来に使ったと言われる冥土通いの井戸や、小野篁像、閻魔大王像などの見物を楽しみにしていたが、特別拝観日以外は立ち入ることが出来ず、トイレさえ使用もできないという厳しさで、境内に入った、というだけに終わった。
松原通を東進、清水道交差点で東大路通を渡り、坂を上り、日體寺、次々と中国人を吐き出す観光バス駐車場と過ぎ、左から産寧坂、右から五条坂が合流する交差点を通る清水坂となる。女性用で3000円以上、男性用で4000円以上のレンタル着物店で着替えた中国人が溢れる土産物店が並ぶ狭い清水坂を上っていくと清水坂仁王門前の広場である。
清水寺の仁王門前広場の現在時刻は11:55で、熱中症計は厳重警戒、温度31.8℃、湿度は高湿度で計測不可能である。連日25℃を超すこともなく、冷夏が続く東京から来ると、その蒸し暑さは耐え難い。広場の橋で涼みながら休んでいると、感覚的に90%以上が中国人、3〜4%がその他外国人、残りが日本人である。八坂神社で乗ったタクシーの運転手も最近中国人の多さに嫌気が差したのか、日本人観光客が減っている、というのが実感できる。多くの若い女性が着物姿なのは分かるが、なにか着崩れ感があり、蒸し暑いので裾を捲り上げる娘や、50、60過ぎの老婆がピンクや赤の娘たちと同じ浴衣でポーズをとるなど化物屋敷であり、着物レンタル店の悪意を感じる。珍しく決まっている、と思ったら日本人だった。次々に中国人が仁王門に向かうが、写真を撮ったら確認するためなかなか動かず、やっと撮ろうとしたら平気で割り込んでくるので撮影もままならない。噂には聞いていたが、ここは日本なのか中国なのか分からない。階段を上り、仁王門、三重塔を経て本堂舞台に向かうが、入場券売り場もさることながら、入場の普門閣(重文 轟門)の人混みを見たら入る気もせず、工事の幕で覆われた舞台を見て引き返した。何故か多くの中国人も西門や三重塔前は少なく、代わりに他の国の外人が多かった。
清水坂を下り、右折して産寧坂を下る。転ぶと3年以内に死ぬと言われる産寧坂(3年坂)は狭くて、急な坂であるが、幕末に会津と土佐藩が切腹事件を起こした明保野亭を過ぎ、平地に出ると法然、親鸞を祀る興正寺霊山本廟がある。右折して二寧坂を下り、左折すると一念坂の角を直進して二寧坂の路地を進む。清水寺ではうんざりするほど屯していた中国人は、数組のグループ以外は見当たらず、食事や買物を楽しむ日本人が多い。二寧坂の路地を進み、右に京都霊山護国神社の鳥居がある維新の道との交差点を渡り、歩いていくと霊山観音の大駐車場に出る。その左奥に高台寺がある。
霊山観音の駐車場から左奥の高台寺へ向かうと絵馬所があり、秀吉、ねね夫婦石像が可愛らしく作られているのはともかく、絵馬がピンクのハート型で可愛い夫婦像が描かれている。その奥が庫裏で、前で左折すると拝観券の売り場がある。順路に従い庭園を歩いていくと本堂(方丈)があり、靴を脱いで見物するが、方丈前庭の波心庭(はしんてい)以外は撮影は禁止である。更に歩いて開山堂を経て出口を出ると勅使門がある。
高台寺前大門を出て堂々とした立派な坂である台所坂を下リ右折、坂を上って北上すると御陵衛士屯所跡の碑がある高台寺塔頭 月真院がある。幕末に新撰組参謀の伊東甲子太郎が油小路木津屋橋で謀殺され、さらに伊藤の遺体を引き取りに来た多くの同志も、新撰組隊士によって斬られ、御陵衛士隊の活動は終止符を打った。ねねの道の突き当りの大雲院 祇園閣(銅閣)で右折、すぐ左折して北上する。大雲院は非公開で、祇園閣(銅閣)の屋根は山鉾の形をしている。ねねの道を進み、祇園堂 祇園女御供養塔、大谷祖廟参道と過ぎ、円山公園前の頼山陽先生墓碑 道標に至る。
円山公園を南口から入ると池があり、その奥左に名物の枝垂れ桜がある。しかし、その説明板は摩耗が激しい上に、大粒の雨粒が黒いシミとなって全く読むことは出来なかった。枝垂れ桜の南側を西進、木賊山、芦刈山、伯牙山、郭巨山などの10基の山鉾が格納されている祇園祭山鉾館を過ぎて赤鳥居をくぐると八坂神社の本殿、舞殿がある。雨はますます激しくなってきて、本当は舞殿横から西に進み、四条通の祇園交差点に聳え立つ西楼門に行きたかったが、断念して南楼門から出ることにした。南楼門の先の石鳥居を出て大谷御廟 参道、秋葉三尺坊大権現を過ぎた所でタクシーが来たので京都駅新幹線の八条口に向かった。
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