JR 川崎駅〜京急 八丁畷駅〜京急 京急鶴見駅

【関連サイト】 東海道 旧川崎宿(六郷の渡し〜京急川崎〜八丁畷)
JR 京浜東北線・根岸線(川崎〜旧東海道〜鶴見)
有名仏閣 曹洞宗大本山 鶴見総持寺


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JR 川崎駅 JR 川崎駅 
川崎駅 地下街 アゼリア 川崎駅 地下街 アゼリア 
川崎駅前 銀柳街 川崎駅前 銀柳街 
川崎駅前 市役所通りを南下 川崎駅前 市役所通りを南下 
右折して砂子通りへ 右折して砂子通りへ 

市役所通りの右側を歩き、砂子通りに入る。地図は多摩川に架かる六郷橋で左右に分かれ、川崎大師と川崎宿に到る。
市役所通りの反対側まで川崎宿の遺構が続き、今回はその続きを歩くことになる。
旧東海道 砂子通りを西進 旧東海道 砂子通りを西進 
旧東海道 砂子通りを西進 旧東海道 砂子通りを西進 

新川通りを渡り、更に西進。
市電通りを渡り、西進 市電通りを渡り、西進 

川崎警察署東側入口交差点を渡り、日進町町内会館前に川崎警察署がある。道路はギリギリ片道1車線であり、こんな所に、と思う。
旧東海道 川崎宿 日進町町内会館「麦の郷」の由来 旧東海道 川崎宿 日進町町内会館「麦の郷」の由来 

京急八丁畷駅前に松尾芭蕉の句碑があります。
 元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵をあとに故郷伊賀上野へ向かいました。芭蕉を見送りに来た弟子たちは、名残を惜しんで六郷川(多摩川)を渡って川崎宿に入り、このあたりまで来ました。そして別れを惜しんで弟子たちと句を詠みあいます。弟子たちに対して、芭蕉が詠んだ句が
  「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」
です。
旧東海道 川崎宿 日進町町内会館「麦の郷」の由来 旧東海道 川崎宿 日進町町内会館「麦の郷」の由来 
旧東海道 川崎宿 芭蕉の句碑 旧東海道 川崎宿 芭蕉の句碑 

日進町町内会館の少し先で、正面突き当りに京急本線の八丁畷駅がある。
旧東海道 川崎宿 芭蕉の句碑 旧東海道 川崎宿 芭蕉の句碑 
旧東海道 川崎宿 芭蕉の句碑 旧東海道 川崎宿 芭蕉の句碑 

元禄七年一六九四年五月十一日(現在の六月下旬)に俳人芭蕉が江戸深川の庵をたって郷里伊賀国柘植庄へ帰る時、江戸から送ってきた門人たちと川崎宿はずれの現在の場所八丁畷の腰掛茶屋でだんごを食べながら休憩しました。そして最後の別れをおしんで「翁の旅を見送って」と題して各人が俳句を読みあいました。弟子たちの句にたいし芭蕉は
麦の穂をたよりにつかむ別れかな
と返歌し弟子たちの親切を感謝し麦の穂を波立てて渡る浦風の中を出立しました。
旧東海道 川崎宿 芭蕉の句碑 旧東海道 川崎宿 芭蕉の句碑 

俳聖松尾芭蕉は、元禄七年(一六九四)五月、江戸深川の庵をたち、郷里、伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある
  麦の穂をたよりにつかむ
  別れかな
の句にたくしました。
京急本線 八丁畷駅 京急本線 八丁畷駅 

道の突き当たりに駅舎があり、以前京急本線を歩いた時は左折した。今回は旧東海道を歩くため、右折し踏み切りを渡る。
八丁畷の由来と人骨 八丁畷の由来と人骨 

八丁畷の踏切を渡ってすぐ左にある。
江戸日本橋を出発点とする東海道は、川崎宿を過ぎてから隣の市場村(現在の横浜市鶴見区尻手・元宮・市場のあたり)へいたります。この区間は八丁(約八七〇メートル)あり、畷といって、道が田畑の中をまっすぐにのびていましたので、この地を八丁畷と呼ぶようになりました。
八丁綴の付近では、江戸時代から多くの人骨が発見されました。江戸時代の記録によりますと、川崎宿では震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が落命しています。
八丁畷の由来と人骨 八丁畷の由来と人骨 
旧東海道を西進 旧東海道を西進 

いかにも旧東海道と言う感じの片道1車線ギリギリの道で、いちば銀座の熊の神社前で左折すると京急本線の鶴見市場駅がある。
京急本線 鶴見市場駅 京急本線 鶴見市場駅 
旧東海道 市場一里塚 旧東海道 市場一里塚 
旧東海道 市場一里塚 旧東海道 市場一里塚 

慶長9年(1604)徳川幕府は、江戸から京都までの街道を整備し、合わせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。里程の目標と人馬の休憩のための目安として,江戸日本橋から一里(約4km)毎に街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えました。
ここは江戸より五里目の塚に当り、市内で最初の一里塚です。左の塚が現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。
旧東海道 市場一里塚 旧東海道 市場一里塚 
旧東海道 鶴見川橋 旧東海道 鶴見川橋 

江戸日本橋から来た場合、最初に渡る橋であった鶴見川橋(当時の名称は「鶴見橋」でした。)は、「東海道五十三次」や「江戸名所図会」|こ描かれ、ここからの眺めは海原や富士山が臨め、茶屋などが多く賑わっていたといいます。
旧東海道 鶴見川橋 旧東海道 鶴見川橋 
旧東海道 寺尾稲荷道 道標 旧東海道 寺尾稲荷道 道標 

鶴見川橋を渡って鶴見図書館手前にある。
江戸時代、ここは寺尾稲荷社(現・馬場稲荷社)へ向う道との分岐点で、このように「寺尾稲荷道」と記された大きな道標がたてられていました。寺尾稲荷社は、馬術上達や馬上安全の祈願で知られ、江戸からの参拝者も多かったといいます。またこの道は菊名へ向かう寺尾道や川崎へ向う小杉道にもつながる、この地域の大切な道でした。なお、当時の道標は、現在、鶴見神社境内にあり、ここにあるのはその複製です。
旧東海道 寺尾稲荷道 道標 旧東海道 寺尾稲荷道 道標 
鶴見図書館 鶴見図書館 
旧東海道 案内板 旧東海道 案内板 

鶴見図書館前にある。
古代から多くの人に利用されていた東海道は、17世紀のはじめ、徳川家康により江戸と京都を結ぶ重要な街道として整備されました。宿場が設けられ、距離の目安として一里(約4km)ごとに道の両側に一里塚を築きました。市場西中町には、この一里塚が片側だけ、今も残っています。海に面して景色が優れていた鶴見や生麦は、川崎宿と神奈川宿の間の「間の宿」としてにぎわい名物、「よねまんじゅう」を商う店や茶屋が繁盛したといいます。
旧東海道 鶴見 信楽茶屋 旧東海道 鶴見 信楽茶屋 

信楽茶屋は、東海道の立場として栄えた鶴見村の中で最も大きな茶店でした。「江戸名所図会」にも描かれ、古いのれんをほこり、繁盛しました。竹の皮に包んだ梅干を売り、大山石尊(現・大山阿夫利神社=伊勢原市)祭礼の時には、ことににぎやかだったといいます。
*立場:宿場と宿場の間にある「間の村」で、人や馬が休憩したところ
京急本線 京急鶴見駅 京急本線 京急鶴見駅 
JR 京浜東北線・根岸線 鶴見駅 JR 京浜東北線・根岸線 鶴見駅 

京急鶴見駅の北側にあり、更に北に出て西側に曹洞宗大本山の鶴見総持寺がある。

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