神奈川(横浜)〜浅間神社〜相鉄 天王町
【関連サイト】 | 歴史と緑にふれる和の西横浜ウォーキング(H18−04−15) | |
直前のページに戻ります。
写真の一覧表へ
青木橋交差点 京急本線 神奈川駅があり、旧東海道 神奈川宿の案内板がある。 |
|
青木橋交差点脇から旧東海道に入る 青木橋交差点の北に聳え立つ本覚寺側で、環状1号線を少し横浜駅側に歩いた所の横道を入る。本当にこの道でよいのか、と思わせるほどの横道である。 |
|
旧東海道 神奈川宿 大綱金刀比羅神社と一里塚 この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯綱社と言われ、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入する船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。 また、江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目に当り、土盛の上に樹が植られた大きなものであった。 |
|
旧東海道 神奈川宿 神奈川宿 袖ヶ浦 たどり行くほどに金川の台に来る。爰は片側に茶店軒をならべ、いずれも座敷二階造、欄干つきの廊下、桟などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし。 十返舎一九 「東海道中膝栗毛」より これは岩波文庫の東海道中膝栗毛(上)P.79に載っている。 |
|
旧東海道 神奈川宿 来た道を振り返るとかなりの急坂であり、2車線やっとの道路で、このような案内板がないと道を間違ったのでは、と思う。 |
|
旧東海道 神奈川宿 ・神奈川の台と茶屋 ここ台町あたりは、かつて神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見おろす景勝の地であった。 弥次さん、喜多さんか活躍する『東海道中膝栗毛』にも、「爰は片側に茶店軒をならべ、いずれも座敷二階造、欄干つきの廊下、桟などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし。」とある。「おやすみなさいやァせ」茶屋女の声に引かれ、二人はぶらりと立ち寄り、鯵をさかなに一杯ひっかけている。 上図の「櫻屋」が現在の料亭田中家のあたりだといわれている。 |
|
旧東海道 神奈川宿 神奈川台の関門跡 |
|
旧東海道 神奈川宿 神奈川台の関門跡 ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政六年(一八五九)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治四年(一八七一)に他の関門、番所とともに廃止された。 |
|
旧東海道 神奈川宿 急坂から下り道となる。 |
|
旧東海道から見た鶴屋町3丁目交差点 左右に環状1号線が走る。 |
|
旧東海道 首都高神奈川2号 三ツ沢線 | |
旧東海道 宮谷小学校入口交差点で新横浜通りを渡る 新横浜通りを南下、写真の歩道橋手前を右折、横道に入る。 |
|
旧東海道 新横浜通りを南下、写真の歩道橋手前を右折、横道に入った所で、本当にこの道で良いのかどうかは地図を信じるしかない。 |
|
旧東海道 浅間神社 元神奈川区浅間町に鎮座し浅間町一円の氏神なり、創祀は承暦四年(1080)といわれ、源頼朝公文治元年平家討滅に依るべきを思い且つは戦勝奉賽のため関東一円の社寺修築神馬神田の寄進に及べり、然る処武蔵国橘樹郡神奈川在芝生村に富士山の形状の山地あるを卜とし社殿の修築をなし報賽の至誠を致せる由といふ。爾来9百余年神威矍鑠として赫灼として遠近を光被し万民均しく渇仰崇敬せり |
|
旧東海道 浅間神社 | |
旧東海道 浅間神社 | |
旧東海道 浅間神社 | |
旧東海道 洪福寺松原商店街 | |
旧東海道 洪福寺松原商店街 | |
旧東海道 洪福寺松原商店街 | |
松原商店街入口交差点 国道16号線を渡る。 | |
旧東海道 シルクロード天王町商店街 シルクロードの由来はここを通る八王子道による。 ハ王子道は、帷子川にそって伸び、町田・八王子へと続く道で、安政六年(一八五九年)の横浜開港以後は八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり、「絹の道」と呼ばれています。 |
|
旧東海道 橘樹神社 | |
旧東海道 帷子川を渡る 正面は相鉄 天王町駅である。 |
|
相鉄 天王町駅 |