上野公園

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上野公園 上野公園 

上野広小路側の入り口で、階段を上ると西郷さんに着く。
上野公園 西郷隆盛 銅像 上野公園 西郷隆盛 銅像 

上野のシンボルで、写真を撮る人が相次ぐ。
上野公園 上野公園 

西郷さんの所から見た南にある上野広小路風景である。
上野公園 西郷隆盛 銅像 上野公園 西郷隆盛 銅像 
上野公園 上野恩賜公園由来 上野公園 上野恩賜公園由来 

 江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(一六二五)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応四年(一八六八)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布告により公園に指定されたことがら公園地となった。
 恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより施設など我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十二万平方メートル余り。
 上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさがら公園にすべきであることを政府に進言して実現したものである。
上野公園 西郷隆盛像の由来 上野公園 西郷隆盛像の由来 

 敬天愛人を信条とする西郷隆盛の生い立ち、明治維新での活躍、西南の役での敗死などが書かれた後で、像の由来が書かれている。
 西南の役のため一時逆賊とされたが明治二十二年二月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志二万五千人の醵金を得て、明治二六年起工、同三〇年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。
上野公園 彰義隊墓所 上野公園 彰義隊墓所 

西郷さんの後ろの木立の中に建てられている。

一五代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応四年(一八六八年)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦五月十五日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が一日で彰義隊を壊滅させた。
 生き残った小川ら隊士は、明治七年(一八七四年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千佳円通寺内に合葬されている。以後、百二十年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。
上野公園 彰義隊墓所 上野公園 彰義隊墓所 
上野公園 清水観音堂 上野公園 清水観音堂 

清水観音堂は不忍池寄りの西のはずれにある。
上野公園 清水観音堂 上野公園 清水観音堂 
上野公園 上野公園 
上野公園 上野公園 

現在地は案内図の下の線の中央で、東京文化会館の手前である。
上野公園 東京文化会館 上野公園 東京文化会館 

このまま北上することもできるが、桜並木から外れるため西側に向かう。
上野公園 桜並木 上野公園 桜並木 

満開とは目の錯覚で7、8分咲き、という人もいるが、見事な風景である。桜の幹も太く、古木の味わいを持つ。
上野公園 桜並木 上野公園 桜並木 
上野公園 上野大仏、パゴダ 上野公園 上野大仏、パゴダ 

公園の西にパゴダがあるのは知っていたが、有名な大仏は今まで見つけられなかった。パゴダは離れた所からも見えるし、特に行くまでもないと考えていたこともあるが、このように大きな看板は以前には無かったように思う。

寛永八年(一六三一年)堀丹後守直寄公が釈迦如来尊像を当山に建立せられ、一六六〇年頃青銅の大仏に改鋳された。
大正十二年、大震災で破損のため撤去する。
上野公園 上野大仏、パゴダ 上野公園 上野大仏、パゴダ 
上野公園 パゴダ 上野公園 パゴダ 

発願者 上野観光連盟
寄進者 大成建設株式会社
昭和四十二年七月吉日竣工
上野公園 上野大仏 上野公園 上野大仏 

上野大仏略記
寛永八年(一六三一年)越後の国村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、戦乱に倒れた敵味方将兵の冥福を祈るために土で釈迦如来像を造立した。
 明暦・万治の頃(一六五五〜六〇年)木食僧浄雲師により銅仏に改められた。元禄十一年(一六九八年)露座の大仏に仏殿が建立された。
 天保十二年(一八四一年)火災に遭い、天保十四年、末孫堀丹波守直央公が大仏を新鋳しまた仏殿を再建した。

大正十二年関東大震災によって佛頭がおち、寛永寺にて保管、その後佛体は解体され第二次世界大戦時に献納された。

昭和四七年春彼岸、尊顔を再び旧地に迎えて祀り再建を計る一助とする。
上野公園 上野大仏 上野公園 上野大仏 
上野公園 上野大仏、パゴダ 上野公園 上野大仏、パゴダ 
上野公園 上野大仏、パゴダ 上野公園 上野大仏、パゴダ 

正面の丘は、かつて「大仏山」と呼ばれ、丘上にはこの名の  とおり大きな釈迦如来坐像が安置されていた。
 最初の大仏は、越後(現、新潟県)村上藩主堀直寄が、寛永八年(一六三一)に建立した二メートル八十七センチ前後の釈迦如来像であったが、粘土を漆喰で固めたものであったため、正保四年(一六四七)の地震により倒壊してしまった。
 明暦〜万治年間(一六五五〜一六六〇)には、木食僧浄雲が江戸市民からの浄財によって、三メートル六十七センチをこえる青銅製の堂々たる釈迦如来坐像を造立した。
上野公園 桜並木 上野公園 桜並木 
上野公園 東照宮 上野公園 東照宮 

上野東照宮は、別ページにまとめたが、上野動物園の南側で、公園の西側に位置している。
上野公園 東照宮 上野公園 東照宮 
上野公園 小松宮 銅像 上野公園 小松宮 銅像 

桜並木を出て、大噴水のある広場で、上野動物園手前にある。

彰仁親王は伏見宮邦家親王の第八王子。安政五年(一八五八)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応三年(一八六七)勅命により二十二歳で還俗、東伏見宮嘉彰親王と改称した。同四年一月の烏羽・伏見の戦に、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督となり、戊辰戦争に従軍した。明治一五年には、小松宮彰仁親王と改称。
上野公園 小松宮 銅像 上野公園 小松宮 銅像 
上野公園 桜並木 上野公園 桜並木 

大噴水のある広場から見た風景で、両方から道を覆うように桜並木が続く。
上野公園 上野動物園 上野公園 上野動物園 

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