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お盆の徳島、高松、岡山周遊H230815-17
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鳴門の渦潮〜徳島眉山〜阿波踊り風景H230815
羽田空港から徳島阿波おどり空港に着き、到着ロビーでほんま連が演じる阿波踊りを見た後、鳴門公園に向かう。しかし、お盆で観光客が殺到して直接行けず、反対方向にかなり行った所の駐車場で停め、無料のシャトルバスで向かうよう指示された。スケジュールの都合で駐車場手前の亀浦観光港でうずしお観潮船わんだーなるとに乗ることとした。大鳴門橋で大潮の渦潮(別ページに整理)を見た後、乗合バスで徳島駅に向かう。
鳴門海峡は約1300mの狭い瀬戸で、この海峡を境として潮の干満により瀬戸内海側と紀伊水道側とに潮位の差が生じ、それが早い潮流となり、複雑な海底の地形ともあいまってうず潮ができる。海峡に架かる大鳴門橋は元々2階は自動車道、1階は鉄道の計画だったが、空いている1階部分を渦の道として整備、大鳴門橋から渦潮を見物できるようになっている。
観潮船で大鳴門橋に近づくと、大きな渦潮が出来ては消え、消えては出来て千変万化である。観潮船は絶えず方向を変えて約10分の大潮の渦潮見物を楽しんだ。
徳島駅前のそごうを過ぎ、伊予街道(国道192号)のそごう南で熱中症計は厳重警戒となった。元町交差点で右折、新町橋通りへ入ってすぐ右手の新町橋川沿いに有料の藍場浜演舞場がある。新町橋川に架かる新町橋を渡り、新町橋通りを南下、正面にどこから見ても眉のように美しい、という眉山(びざん)が見える。道路は夜に無料の新町橋演舞場となる。新町橋二丁目交差点を渡ると阿波おどり会館で、その前の広場にモラエス記念碑がある。
阿波おどり会館1階のあるでよ徳島(徳島県物産観光交流プラザ)を見た後、5階の山麓駅からロープウェイで眉山山頂に着く。山頂にはパゴダや、淳仁天皇の兄宮の船王の万葉歌碑、モラエス館がある。眉山山頂は標高277mなので涼しくなるはずだが、そごう前より温度は3.5℃、湿度も11%も上がり、熱中症計は厳重警戒である。眉山山頂から徳島市内を眺めた後、眉山公園の一般道をひたすら歩き、同期会会場のかんぽの宿徳島に向かう。
山頂駅から夜景を見た後、眉山ロープウェイで下り、無料の新町橋演舞場となっている新町橋通りを北上する。新町橋演舞場の見物客を押しのけ、押しのけてやっと新町橋交差点で右折、新町橋川沿いに進む。新町橋川の北岸を東進、新町橋川に架かるふれあい橋に至る。ただでも狭い遊歩道の両脇に屋台が並び、歩くのも困難で、蒸し暑さは益々増しているが、熱中症計を見る余裕はない。
阿波踊り 南内町演舞場H230815
ただでさえ狭いのに、屋台が並び見物客で溢れ返っている新町川の北岸を歩き、やっと南内町演舞場に着く。市内の有料演舞場は4ヶ所で、ホテルやかんぽの宿徳島で聞いたところでは、この南内町演舞場は最後に総踊りがあるので最高の演舞場だそうである。全長220m、入口からC自由席、B指定席、S指定席、A指定席で、我々は出口よりのA指定席の最下段である。現在時刻は20:25で、温度31.1℃、湿度は計測不可能、熱中症計は危険である。
20時半から開演で、先頭は伝統ある有名連のゑびす連で、会場の案内放送では、先導が女性というのは珍しいそうである。演舞の構成、順番は各連毎に異なり、最初に連の名を記した高張提灯、男女の踊り手、鳴り物と続く。踊り方も男踊りは腰を屈めて踊り、女踊りは立って踊るが、連によって激しく跳ね回ったりする。
次のかもめ連(徳島航空基地)は、左の高張提灯とは別に、右の航空機の飾り物が売り物である。連のグループによってはまさに狂喜乱舞の踊り方である。しかし、腰を屈めた踊り方の中にこのような踊り方がある方が面白い。出口手前で踊り手が入り乱れて踊り、最後に大太鼓が鳴って演舞を終えるのが決まりのようである(動画参照)。
続いて徳島の日立グループによる日立連と有名連のまんじ連との合同で、毎週土曜21時からTBSで放送される「世界ふしぎ発見!」に出演する野々村真が参加した。浴衣の卍(まんじ)は蜂須賀家の家紋で、女踊りの踊り手はダンスのような演舞を行う(動画参照)。出口前では特別参加の野々村真が派手な演舞を行い、喝采を浴びていた。卍(まんじ)の蜂須賀家の家紋を付けた蜂須賀連に続き、左の高張提灯は富士通連、右はささ連だが、実質的にささ連のささ連・富士通連が演舞する。
殿様連は男踊りだけでなく、女踊りの踊り手までも狂喜乱舞の体である(動画参照)。東京海上日動連に続き、「大名」連は武士だけでなく、殿様までも参加する。達粋連で9番目で、演舞終了時点で開演後1時間、演舞は2時間なのでほぼ予定通りである。
天保連の高張提灯に続いて、子供や幼児の踊り手が続く。どう見ても幼稚園前後の女の子で、一生懸命手足を動かし、遅れまいとする姿に見物客の笑みがこぼれる。狂喜乱舞も続くと当たり前になってきて、粛々と進む阿波踊りのイメージがすっかり変わってしまった。奴連に続く無作連は、鳴り物が道の両脇に寄り、踊り手が戻ってきて演舞する。のんき連が終わった時点で21:50で、温度36.0℃、湿度は計測不可能、熱中症計は危険である。開園時に比べ5℃も温度が上がり、蒸し暑さも増した気がする。
市内何ヶ所かで演舞してきたためか、尻端折りしていた浴衣も乱れ、汗みずくである狂喜乱舞の阿呆連(動画参照)、無双連、うずき連、若獅子連と有名連が続く。徳島大土木建設連は大学生の連らしく、若手ばかりであるが、今までの有名連による豪華料理の後のお茶漬けの味わいである(動画参照)。
最後の「れれれの連」は、天才バカボンで竹ぼうきで掃除をしている「れれれのおじさん」を模したものである。踊りながら独特の指やシェーの足の形を示す、いわばデザートである。
阿波踊りの連が集まり、総踊りが行われる。今までと違い、最初に鳴り物が出てきて演奏後両脇に寄って踊り手を迎える。鳴り物の間を踊り手が演舞し、最後に各連の高張提灯が進んで終了する。演舞する連は今回参加しなかった連も含まれている。
高松城(玉藻城)〜栗林公園〜金刀比羅宮H230816
徳島駅から高松駅に着き、駅前の玉藻公園西門から高松城(玉藻城)に入り見物する。瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだ高松城(玉藻城)は、日本の三大水城のひとつといわれている。二の丸跡の西門から入り、武櫓跡を過ぎると水門がある。内苑御庭前を通り過ぎ、月見櫓、渡櫓と進み、端の鹿櫓跡で引き返す。白壁の月見櫓、渡櫓は真夏の青空によく映える。入口で早くも熱中症計は警戒となる内苑御庭に入り、昭和天皇・皇后御手植松や披雲閣を見る。披雲閣は藩の政庁及び藩主の住居として使われていたが、明治5年に老朽化で取り壊された。松平家第12代当主の松平頼寿が大正6年に再建、昭和天皇、皇后両陛下がご宿泊になったこともある。桜御門跡から桜の馬場、石垣解体修理工事中の天守台と経て、廉櫓跡の西門から出る。
西門横の琴電高松築港駅から琴電に乗り、栗林公園駅で下車、10分歩いて栗林公園を散策する。栗林公園は、寛永年間(1625年頃)当時の讃岐領主生駒高俊公が紫雲山を背景に南湖一帯を造園し、更に寛永19年(1642年)に入封した高松藩主松平頼重公(水戸光圀公の兄)に引き継がれる。以来5代頼恭公に至る100年余の間、歴代藩主が修築を重ねて延亨2年(1745年)完成した。藩士たちの通用門であった東門(切手御門)栗林公園に入り、紫雲山に向かって歩き、商工奨励館を過ぎ、秩父宮殿下(大正3年)、高松宮殿下(大正3年)など5人のお手植松で左折する。鶴亀松(別名 百石松)を過ぎると
北湖で、根上り樫などを見つつ北湖を巡り、朱色が鮮やかな梅林橋に至る。北湖沿いを歩き、ぼたん石と見返り獅子、講武?と過ぎ、涵翠池の前の掬月亭に着く。江戸初期の頃(1640年頃)に建てられた回遊式大名庭園の中心的建物であり、歴代藩主が大茶屋と呼び最も愛用した建物である。松平5代藩主頼恭が、中国の詩人于良史の詩の一句「水を掬すれば月手にあり」からとって掬月亭と命名したものである。南湖に向かい、大正天皇お手植松を経て、南湖を巡り、偃月橋を渡って桜の馬場から東門出口に至る。
琴電に再び乗り、小1時間後に琴電琴平駅に着く。琴電 琴平駅から参道を歩き、金倉川に架かる工事中の大宮橋を渡って突き当りを左折、銘菓灸まん、かまどなどを売る商店街を進む。右折して表参道へ入り、手打ちうどんのてんてこ舞の前に金陵の郷がある。金陵は万治元年(1658年)に阿波藍商として始まり、安永8年(1779年)に酒造を始めた。寛政元年(1789年)に琴平でも酒造を始め、以来金刀比羅宮の神酒は金陵となった。表参道商店街を進み、こんぴら算額茶屋を経て、大門(365段)まで上り5,300円の階段前の名物かごやに着く。ここから有名な金刀比羅宮の階段が始まるが、土産物店で竹杖を貸し出している。大門からは金刀比羅宮の境内で、特に許された五人百姓が加美代飴を売っている。境内の階段は表参道ほど急ではないが、それでもかなりの坂である。今治造船株式会社が奉納した直径六メートル、重量十九.二トンの奉納プロペラに至る。金刀比羅宮は凡そ三千年前に鎮座、祭神は大物主神、崇徳上皇を合祀している。境内を進み、資生堂パーラーの神椿まで来た時点で、帰りの時間の関係で引き返さざるを得なかった。初めての真夏の参拝で休憩が多く、体力を消耗したことによる。帰りは楽に階段を下り、琴電琴平駅で休んだ後、JR 琴平駅に向かい、各停に乗り岡山駅に向かう。瀬戸大橋線で瀬戸大橋に乗ってすぐに坂出の工業地帯が見え、少し経つと瀬戸内海が見え出す。
後楽園〜岡山城〜倉敷美観地区H230817
桃太郎像と大噴水、岡電の路面電車ばかりが目立った岡山駅は、20年後に大きく変貌し、きれいで大規模なバスターミナルが全面に出て、その前の弊衣破帽の旧制六高生像が新たなシンボルとなっている。駅前に聳え立って見えた高島屋は他のビルの陰に埋もれてしまっている。
駅前の桃太郎大通りを東進し、西川交差点、柳川交差点と過ぎて、城下交差点で城下筋を渡り、烏城みちへ入り、後楽の森を経ると旭川の向こうに岡山城(烏城)が見える。
月見橋を渡って右折、南門から後楽園に入り、右に向かうと戦災をまぬがれた数少ない建物の廉池軒がある。沢の池沿いを歩き、庭園を立体的な景観へと変化させた唯心山に上り、沢の池や井田と呼ばれる田圃、大芝生の後楽園を眺める。下りて沢の池沿いに歩き、中の島を経て南門の反対に位置する慈眼堂に至る。
各宿の扁額がある五十三次腰掛茶屋を過ぎ、沢の池沿いに進んで鶴鳴館、延養亭に向かう。正門前の鶴鳴館は、賓客の接待などに使われたが戦災で焼失し、岩国市にあった吉川邸を移築した。隣接する延養亭は藩主の居間で、園内で最も重要な建物だったが、戦災で焼失し、復元された。残念ながら両方共非公開である。南門から出て旭川に架かる月見橋を渡る。
岡山城(烏城)の廊下門前公園にあるさまざまな記念碑、案内図を見た後、廊下門をくぐり石段を上って表書院へ出る。表書院は、岡山藩の政治が行われた建物で、数棟からなり、大小60を越える部屋があった。地面に表書院の構造が分かるように表示がなされている。国の重要文化財で、現存する月見櫓は北西角を固める隅櫓である。多聞櫓や、大納戸櫓跡を見物し、石垣から岡山市内を眺める。
表書院から不明門(あかずのもん)を通り、天守閣広場に出ると戦災で焼失し、再建された3層6階の烏城の名にふさわしい、真っ黒な天守閣が聳え立つ。入口は地下1階で、5階の展望台までエレベーターで上がり、階段で降りてくる。展望台の5階で東西南北の景色を眺めた後、金の鯱がある4階、宇喜多、小早川家時代の展示がされている3階、池田家関連の展示がされている2階、庶民の暮らしが展示されている1階を見物して地下1階の出口から外に出る。
岡山城(烏城)の天守閣に接する塩蔵横の石段を下り廊下門脇で左折、表書院に出て廊下門をくぐり抜けて旭川に架かる月見橋に戻る。烏城みちの後楽の森でまだ10時なのに熱中症計は厳重警戒、湿度は計測不可能である。城下交差点で城下筋を渡り、桃太郎大通りへ入り、柳川交差点、西川交差点と経て岡山駅に至る。
15年ぶりに訪れた倉敷だが、倉敷駅の南口は三越の撤退や、駅前一番のホテルで、出張時にはよく利用したが昨年(平成22年)11月に閉鎖されたホテル倉敷など閑散としている。美観地区に行くため、かつては狭い道いっぱいに観光客や買い物客であふれていた倉敷センター街、えびす通商店街を通って倉敷総鎮守の阿智神社に至る。平成11年に駅の北にできた郊外型大型ショッピングセンターや、長引く不況で水島工業地帯の不振などが響き、商店街はシャッター通りと化しており、その寂れ方は目を覆うばかりである。
阿智神社から倉敷本通り商店街に進み、倉敷市倉敷公民館を過ぎて、中国銀行倉敷本町出張所角を曲がり、倉敷美観地区の大原美術館に出る。倉敷本町出張所は、ルネサンスの様式を備えた旧倉敷銀行本店で、倉敷紡績の発展や、大原美術館設立にも寄与し、やがて現在の中国銀行の源流となった。別ページに整理した倉敷美観地区を見物後、美観地区入口交差点で右折、倉敷中央通りへ出て北上、倉敷駅に着き、岡山駅に戻る。
倉敷川に架かる今橋を挟み、大原美術館の向かいに国重文大原邸がある。大原美術館横に喫茶店エル・グレコがあり、倉敷川の柳並木を見つつ下流に進み、北田証券、加計美術館、中橋前の倉敷館(観光案内所)、倉敷民藝館、日本郷土玩具館と過ぎて、出口の高砂橋でUターンする。土産物店、食事処が軒を連ね、中橋手前の倉敷川遊覧の川舟乗り場、中橋前の倉敷考古館と経て、入口付近の土産物店を過ぎて美観地区入口の銘菓むらすずめの橘香堂に至る。
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