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隅田川テラス〜住吉神社〜月島機械本社

【関連サイト】   下町散策 佃島・門前仲町〜深川・両国〜浅草(H18-12-16)
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隅田川の橋めぐり 第4回(新橋〜越中島)(H17−06−25)


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リバーシティ21 中央大橋南詰 佃公園・石川島公園案内図 リバーシティ21 中央大橋南詰 佃公園・石川島公園案内図 

中央大橋を境に、左側が佃公園、右側が石川島公園である。
佃公園 中央大橋脇から隅田川テラスへ 佃公園 中央大橋脇から隅田川テラスへ 
隅田川テラスから見た中央大橋 隅田川テラスから見た中央大橋 

隅田川テラスを下流側に歩く。
隅田川テラス 佃大橋、聖路加ガーデン セントルークスタワー 隅田川テラス 佃大橋、聖路加ガーデン セントルークスタワー 

佃大橋の向こうに聖路加ガーデンのセントルークスタワーが見える。
佃公園 みどりの風像、石川島灯台 佃公園 みどりの風像、石川島灯台 

隅田川テラスは佃堀で途切れ、佃公園に戻る。
佃島由来、江戸時代末期の佃島・石川島 佃島由来、江戸時代末期の佃島・石川島 

家康は天正10年(1582年)、本能寺の変が伝えられ、間道を通り抜け大坂に向かったが、出水のため途方にくれている時に佃村の庄屋が多数の船を出して一行を助けた。その後家康が江戸に幕府を開くにあたり、漁師に村する恩賞として彼らに幕府の御菜御用を命じるべくその出府を促し、江戸近海において特権的に漁が出来るようになった。正保元年(1644年)には現在の地に百間四方の土地を埋立てて築造し、故郷摂津国の住吉神社の分霊を奉祀し、島の名を佃島と命名した。
佃公園 石川島灯台 佃公園 石川島灯台 

石川島の灯台の下は公衆トイレである。

石川島の灯台は慶応2年(1866年)、石川島人足寄場奉行清水純崎が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため 油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので六角二層の堂々たる灯台であった。 この完成を最も喜んだのは近在の漁師であった。
佃公園 石川島灯台 界隈案内図 佃公園 石川島灯台 界隈案内図 
佃公園 佃堀に架かる住吉小橋 佃公園 佃堀に架かる住吉小橋 
佃公園 憩いの広場 佃公園 憩いの広場 

住吉小橋の左下にある和風公園である。
佃島 佃堀に架かる住吉小橋を渡る 佃島 佃堀に架かる住吉小橋を渡る 
佃島 住吉神社 銅製 大鳥居(一の鳥居) 佃島 住吉神社 銅製 大鳥居(一の鳥居) 

住吉小橋を渡ってすぐ左にあり、左折して直進すると住吉神社である。

直進すると佃渡し跡広場で、佃島渡船跡の碑や、北条秀司 句碑,、老舗の佃煮店がある。
佃島 住吉神社 陶製扁額 佃島 住吉神社 陶製扁額 

正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています。明治十五年(一八八二)六月に制作され、額字の筆者は有栖川官職仁親王です。扁額左には「一品職仁親王」と記されている。

住吉神社には、この他にも伝 東洲斎写楽終焉地の碑などが狭い境内に所狭しと多くの遺構がある。
佃島 住吉神社の水盤舎・陶製扁額 佃島 住吉神社の水盤舎・陶製扁額 
佃島 住吉神社 水盤舎 佃島 住吉神社 水盤舎 

水盤舎は  欅材のの切妻造、瓦葺きの建物です。明治二年(一八六九)に再建され、同四十四年に改築されました。水盤舎の欄間は、明治二年再建時のものを使ったと推定されています。欄間の正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、また内側にも潮干狩など、佃島の風景が彫られています。石造の水盤には「天保十二年(一八四一)白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。
佃島 住吉神社 伝 東洲斎写楽終焉地の碑 佃島 住吉神社 伝 東洲斎写楽終焉地の碑 

写楽自身が誰なのか謎であり、複数の人間であるとの説もあるのに、終焉の地が分かっているのが面白い。
佃島 住吉神社 お焚き上げ 佃島 住吉神社 お焚き上げ 

古い神社札などを焼くお炊き上げだが、注連縄が燃やされていた。
佃島 住吉神社 社殿 佃島 住吉神社 社殿 

 「西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神」と卜部兼直の和歌にあるように住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕われた伊邪那岐大神の御子、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の三柱の神です。
 神功皇后三韓征伐の際、皇后自ら御親祭をなさり住吉三神の御守護により無事達成なさりました。その帰途、摂津国西成郡田蓑島(大阪佃)にお寄りになり住吉三神を遥拝になりました。これが大阪佃の住吉の社(田蓑神社)の起源です。
 遥か後、天正年間に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣の時、田蓑島(大阪佃)の漁夫達が漁船をもって神崎川の渡船を勤めた由縁で家奉公がこの島の住吉の社(田蓑神社)にも参詣し、家康公の漁業の傍ら田も作れとの事でゝ村名を田蓑から佃に改めさせました。そして田蓑の名を残すため社名を住吉神社から田蓑神社へと改めました。
 天正十八年(1590)家康公が関東下降の際、家康公の命により摂津国佃の漁夫三十三人と住吉の社(田蓑神社)の神職平岡正大夫の弟、権大夫好次が分神霊を奉戴して江戸に下り、寛永年間に幕府より鉄砲洲向いの干潟を賜り、築島工事を起こし、正保二年に竣工し、元の名から佃島と名付け、住吉明神の社地を定めて、正保三年(1646)六月二十九日、住吉三神、神功皇后、徳川家康公の御霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起こりです。
 佃島は江戸湊の入り□に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。
 その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行われ、その地域の海上神(氏神)として信仰されています。
佃島 住吉神社 略縁起 佃島 住吉神社 略縁起 
佃島 住吉神社 佃島 住吉神社 

社殿の脇から出る。
佃島 佃堀に架かる佃小橋を渡り右折、佃堀公園へ 佃島 佃堀に架かる佃小橋を渡り右折、佃堀公園へ 
佃島 佃堀に架かる佃小橋 佃島 佃堀に架かる佃小橋 

此の場所には、江戸時代後期寛政拾年(1798年)徳川幕府より建立を許された大幟の柱・抱が、埋設されておりますのて立入ったリ掘り起こしたりしないで下さい。
佃堀公園沿いに歩き左折、佃大橋沿いに歩く 佃堀公園沿いに歩き左折、佃大橋沿いに歩く 
月島機械本社前交差点で右折、佃大橋の下を進む 月島機械本社前交差点で右折、佃大橋の下を進む 



 
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