歴史的建造物などが細かく記載された馬車道案内図など、名所、旧跡、意外なもの、歴史的なものなどを、豊富なコメント付き写真で紹介。"> 万歩計 散策点描 歳末のみなとみらい、伊勢佐木町、馬車道、赤レンガ倉庫、山下公園散策H301227 馬車道〜万国橋通り〜赤レンガ倉庫(馬車道交差点〜馬車道〜本町四丁目交差点)
 
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馬車道交差点〜馬車道〜本町四丁目交差点

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(伊勢佐木町入口交差点〜馬車道〜本町四丁目交差点)

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伊勢佐木町入口交差点 吉田橋関門跡 伊勢佐木町入口交差点 吉田橋関門跡 

 安政六年(一八五九)六月二日、横浜が開港となって交易、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を設け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことより「吉田橋」と呼ばれました。
 吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。
 関門は、当初港町側に設けられましたが、文久四年(一八六四)二月に吉田町側に移設されました。
 関内、関外と言う呼び名はこのとき以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は明治四年に廃止されました。
伊勢佐木町入口交差点 吉田橋関門跡 伊勢佐木町入口交差点 吉田橋関門跡 
馬車道を北上 馬車道交差点で国道16号を渡る 馬車道を北上 馬車道交差点で国道16号を渡る 
馬車道 馬車道交差点 案内図 馬車道 馬車道交差点 案内図 

細かい案内図で、歴史的建造物だけでなく、色々な記念碑や像なども書かれており、全て見ようとすると大変である。

歴史的建造物の記載方法が統一されておらず、例えば旧横浜正金銀行本店は現在の県立歴史博物館として書かれているが、現在の東京藝術大学は旧富士銀行 横浜支店となっている。
道路沿いの説明板も現在名は全く書かれておらず、利用時に混乱が起きる。
馬車道を北上 馬車道を北上 
馬車道を北上 馬車道を北上 
馬車道 市民文化会館 関内ホール 馬車道 市民文化会館 関内ホール 
馬車道 市民文化会館 関内ホール 熱中症計はほぼ安全 馬車道 市民文化会館 関内ホール 熱中症計はほぼ安全 

現在時刻は12:00で、温度14.0℃、湿度27%、熱中症計はほぼ安全である

前回は伊勢佐木町3丁目交差点の11:30で、温度25.1℃、湿度は73%、熱中症計は注意であった。温度、湿度ともにだいぶ下がったが、これが実際の天気に近いと思う。
馬車道 市民文化会館 関内ホール 日本で最初のガス灯 馬車道 市民文化会館 関内ホール 日本で最初のガス灯 

日本で最初のガス灯

 安政6年(1859年)に開港場となって以来、横浜は西洋文化の玄関口となりました。馬車道を起点にして全国に拡がったものも数多くあります。
 ガス灯は、明治5年(1872年)に、高島嘉右衛門の「日本ガス社中」により、馬車道・本町通り等に設置、点灯され、これが日本における最初のガス灯となりました。柱部は英国グラスゴー市から輸入し、灯具は日本人職人により製造されたと言われます。
 このたび、横浜市市民文化会館て〔関内ホール〕新築完成を祝って、当時の型をモデルとしたガス灯を復元設置しました。
 壁面モチーフは、横浜開港資料館所蔵の絵葉書を転写したもので、明治末期の馬車道です。
馬車道 市民文化会館 関内ホール 日本で最初のガス灯 馬車道 市民文化会館 関内ホール 日本で最初のガス灯 
馬車道 市民文化会館 関内ホール 日本で最初のガス灯 馬車道 市民文化会館 関内ホール 日本で最初のガス灯 
馬車道を北上 馬車道を北上 
馬車道を北上 写真師・下岡蓮杖顕彰碑 馬車道を北上 写真師・下岡蓮杖顕彰碑 

下岡蓮杖は、日本写真の開祖である。旧川崎銀行横浜支店の反対側にある。先端にはカメラが付いているが、第一印象は砲弾である。
馬車道を北上 写真師・下岡蓮杖顕彰碑 馬車道を北上 写真師・下岡蓮杖顕彰碑 

日本写真の開祖 写真師 下岡蓮杖

 嘉永元年(一八四八)オランダから長崎ヘダゲレオタイプ一式が渡来した。
 弘化二年(一八四五頃)狩野派の青年絵師が、銀板写真に遭遇し、そして絵筆を折り捨て写真術習得の道へ歩み出した。この青年こそ、日本に写真師という職業を確立した日本写真の開祖下岡蓮杖その人である。
 蓮杖は、来日の外国人から湿板写真の機材を入手し、筆舌に尽くしがたい辛苦の歳月を経て、文久二年(一八六二)野毛に初めての写真場を開業し、その後、弁天通りに進出し、慶応三年(一八六七)太田町五丁目角地に「富士山」と「全楽堂」「相影棲」の看板を掲げた写真館を開き大繁昌をした。
数多くの門下生を育て、我が国に於ける写真技術の先覚者として近代文化の発展に貢献した。
その業績に敬意を表し、文明開化の地、馬車道通りに写真師発祥一二五周年、日本写真の開祖写真師下岡蓮杖顕彰碑を昭和六十二年(一九八七)建立をみたのである。
馬車道を北上 旧川崎銀行横浜支店(日本興和馬車道ビル) 馬車道を北上 旧川崎銀行横浜支店(日本興和馬車道ビル) 

設計者の矢部又吉は横浜生まれでドイツに学んだ建築家で、隣の旧横浜正金鍍行本店の設計者妻木頼黄の弟子。フアサード2面を残して機能更新を図った今の建物は、歴史的建造物の保存・再生の一手法を示した先駆的作品である。
馬車道を北上 旧横浜正金銀行本店(神奈川県立 歴史博物館) 馬車道を北上 旧横浜正金銀行本店(神奈川県立 歴史博物館) 

横浜正金銀行は、安政6年の開港以来、外国商人が主導していた貿易金融取引を改善するため、明治13年2月28日に設立されました。その後政府の保護を受けて外国貿易関係業務を専門的に担当する銀行として成長し、大正8年には世界3大為替銀行の一つに数えられるようになりました。
この建物は明治37年に横浜正金銀行本店として建設され、ドイツの近代洋風建築の影響を受け、明治時代の貴重な建造物であることがら、昭和44年3月12日には国の重要文化財の指定を受けております。
 さらにこのたび、我が国の近代史のなかでも、産業経済の発展に貢献した貿易金融機関のあり方を示す貴重な建造物およびその敷地であることから、国の史跡に指定されました。旧川崎銀行 横浜支店(日本興和 馬車道ビル)
馬車道を北上 本町四丁目交差点 本町通りを渡り、万国橋通りに進む 馬車道を北上 本町四丁目交差点 本町通りを渡り、万国橋通りに進む 

本町四丁目交差点の赤レンガの建物は、横浜第二合同庁舎(旧生糸検査所)である。
本町通り 本町四丁目交差点から見た本町五丁目交差点 本町通り 本町四丁目交差点から見た本町五丁目交差点 

本町五丁目交差点は三叉路で、桜木町駅から来る本町通りが左からみなとみらい大通りと合流する。



 
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