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野毛坂交差点〜野毛山公園(中村 汀女句碑〜佐久間象山顕彰碑)

【関連サイト】   横浜駅〜掃部山公園〜野毛山公園〜みなとみらい〜港の見える丘公園・元町公園散策H230413(散り始めた桜並木の野毛山公園散策)

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横浜駅根岸道路(市道80号) 野毛坂交差点で右折、野毛山公園道へ 横浜駅根岸道路(市道80号) 野毛坂交差点で右折、野毛山公園道へ 
野毛山公園道 横浜市 中央図書館 野毛山公園道 横浜市 中央図書館 
野毛山公園道 野毛山公園 入口 野毛山公園道 野毛山公園 入口 

野毛山公園道の中央図書館の角で左折する。直進すると市立老松中学校に向かう。
野毛山公園 入口 野毛山公園 入口 

入口は2ヶ所あり、中央図書館の階段を上っていく所と、少し先に進んで老松中学校手前の自動車も通れる坂である。
野毛山公園 入口 案内板 野毛山公園 入口 案内板 

野毛山公園(案内 前半)

 野毛山公園は日本の公園発祥の地である横浜で横浜公園や掃部山公園に次ぐ長い歴史を持つ公園です。
 明治時代の野毛山は豪商たちの屋敷が立ち並ぶ住宅地でした。現在の散策地区には生糸貿易で財を築いた原善三郎の邸宅が、現在の野毛山動物園の区域には茂木惣兵衛の別荘がありました。
 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の際に野毛山も大きな被害を受けました。震災後、被災地復興事業の一環で、都市防災の要地、また市民の憩いの場として、野毛山に公園を建設することになりました。横浜市が買収した民有地、復興局が買収した茂木別邸跡地と市水道浄水場、市長公舎を含む市所有地をあわせ公園用地を取得し、1925年(大正14年)に着工、翌1926年(大正15年)に一般公開されました。開園当時は回遊式日本庭園(現在の野毛山動物園)・西洋庭園(現在の配水池地区)・折衷庭園(現在の散策地区)の三つの様式を持っていました。
野毛山公園 入口 案内板 野毛山公園 入口 案内板 

野毛山公園(案内 後半)

 その後、第二次大戦中は陸軍が使用し、戦後は1947年(昭和22年)まで米軍に接取され、公園として利用できない時期が続きました。
 米軍の接収解除後、1949年(昭和24年)に横浜で日本貿易博覧会が開催されました。第一会場に野毛山公園、第二会場に反町公園を利用して開催された博覧会は野毛山公園を現在の形に整備する契機となりました。日本庭園だった部分は動物園になり、洋式庭園部分には噴水池が設けられました。噴水池は博覧会終了後、競泳用プールに改築され、同年開催された第4回国民体育大会夏季水泳大会の会場となりました。
 さらに1951年(昭和26年)には洋式庭園だった部分に児童遊園が造られ、児童遊園と動物園をあわせて「野毛山遊園地」として開園しました。児童遊園には豆電車、メリーゴーランドなどの遊戯機械や横浜の街並みが見渡せる展望台が設けられ賑わいました。この頃、様々なイベントや集会、映画のロケなどが園内で開かれ、まさに横浜市の中央公園の役割を担っていました。
 1964年(昭和39年)明治時代に作られた野毛山配水池の老朽化により、水道配水池整備工事によって配水池を地下に新設することになリ、児童遊園を閉鎖して整備をすることとなりました。地下配水池整備後は地上部を公園とし、動物の広場、子供の広場が設けられ、現在の野毛山公園の形になりました。
 2002年(平成14年)に動物園の再整備に伴い動物の広場が閉鎖され、2003年(平成15年)から野毛山公園の再整備に着手し、2014年(平成26年)に現在の野毛山公園の形になりました。
野毛山公園 入口 案内板(野毛山 歴史探訪 抜粋) 野毛山公園 入口 案内板(野毛山 歴史探訪 抜粋) 

■野毛の切通しから江戸の人々は異人たちの生活に思いをはせました。

 江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を調印しました。その後、開港場をどこに建設するかアメリカと交渉に入りました。アメリカ側は東海道神奈川宿付近を主張しました。しかし、幕府は大名行列や庶民が行きかう東海道から開港場を隔離し、庶民と外国人との接触をできるだけ避けたいという思惑がありました。大岡川の砂州であった横浜村が開港場に選ばれたのは、横浜村と東海道の間には野毛山があり、大岡川河口部に大きく張り出していたので、横浜村の開港場は東海道から見ることのできない立地となり、庶民と外国人の接触を制限することが可能だったのです。しかし、幕府の提示した横浜村開港場案に対して、「横浜は神奈川東海道から2里半(約10キロ)もあり、そのうえ、途中河川、丘坂があって、これに道を通ずるには橋を架け、丘坂を平らかにしなければならず」と横浜村開港場案に反対しましたが、幕府は開港三ヶ月前に着工し、条約の定めた1859年(安政6年)6月2日に横浜港を差し出しました。
 これに対し、アメリカの全権大使ハリスと各国領事は抗議しましたが、貿易を急いだ外国商人は自国領事の警告を無視し、横浜に住み着いてしまい、やむなく横浜を開港場として受け入れざるを得なくなってしまいました。
野毛山公園 入口 案内板(野毛山 歴史探訪 抜粋) 野毛山公園 入口 案内板(野毛山 歴史探訪 抜粋) 

■横浜道と野毛の切通し

 1858年(安政5年)当時は、東海道筋から横浜への交通は非常に不便であったため、幕府は東海道筋の芝生村(現浅間町交差点付近)から横浜(関内)にいたる「横浜道」と呼ばれる道路を開きました。(当時、東海道と連絡するには、保土ケ谷から井土ケ谷、蒔田を通るか、神奈川からの舟運しかありませんでした。)
 この道は、芝生村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路を築くとともに、新田間、平沼、石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切通しを開き、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けたものでした。
 野毛の切通しへと至る道の途中には関門と番所がいくつも設けられ通行が厳重にチェックされました。
 野毛の切通しの上に神奈川奉行所を築いたのは、いざというとき開港場に架かる吉田橋を落とし、野毛山を砦とする意図があったとも言われています。
野毛山公園 入口 案内板(野毛山 歴史探訪 抜粋) 野毛山公園 入口 案内板(野毛山 歴史探訪 抜粋) 

■ヘンリー・スペンサー・パーマー 横浜にきれいな水を届けてくれた恩人です。

 開港後の横浜は海や沼を埋め立て市街地の造成をしたため水質が悪く、衛生的な生活用水の給水が強く求められていました。
 1883年(明治15年)3月にイギリス工兵中佐のパーマーに水道建設を一任しました。1885年(明治18年)4月に水源を相模川支流道志川に定め、野毛山配水池に至る48キロメートルの水道建設に取り掛かりました。
 1887年(明治20年)9月に完成し、10月17日より市内への給水を開始しました。これが日本初の近代的水道の始まりとなったのです。
 今もパーマーが築いた道志川から西谷浄水場を通り野毛へと続く上水道は「水道道」となってその道筋を追うことができます。
 旧野毛山配水池に胸像が立っています。
野毛山公園 入口 野毛山公園 入口 

道なりに進むと車道の野毛山公園入口に至る。6年前(平成23年)に訪れた時は、手前の階段から入園した。
野毛山公園(散策地区) 入口 野毛山公園(散策地区) 入口 

車道を進むと団地手前に入口がある。野毛山公園案内図によると、左下端である。
 野毛山公園(散策地区) 満開の桜で囲われた芝生広場 野毛山公園(散策地区) 満開の桜で囲われた芝生広場 
 野毛山公園(散策地区) 満開の桜で囲われた芝生広場 野毛山公園(散策地区) 満開の桜で囲われた芝生広場 
野毛山公園(散策地区) 芝生広場 中村汀女碑 野毛山公園(散策地区) 芝生広場 中村汀女碑 

摩滅がひどく、読むのに苦労する。

文化功労者
日本芸術院賞受賞者

 中村汀女先生は明治三十三年熊本に生れ、江津湖畔に育ち、高浜虚子に師事、昭和二十二年俳誌「風花」を主催、句集「紅白梅」ほか多数の著書あり
 昭和五年より西戸部税官舎に住まわれ、良き時代の
横浜をこよなく愛され、幾多の名句を詠まれ、ここにゆかりの句を戴き、風花湘南支部一同、これを句碑として此処に残す。
  昭和四十八年 五月三十日
野毛山公園(散策地区) 芝生広場 中村汀女句碑 野毛山公園(散策地区) 芝生広場 中村汀女句碑 

ふきのたう
 おもひ
  おもひの
   夕汽笛
野毛山公園(散策地区) 芝生広場 中村汀女碑 野毛山公園(散策地区) 芝生広場 中村汀女碑 

明治三十三年熊本市生れ。本名破魔子。
「ホトトギス」に属し高浜虚子の指導を受けたのち句誌「風花」を創刊主宰した。
 蕗のたうおもひおもひの夕汽笛
かってこの地に住みこの句をはじめ、この公園からの情景など、数々の俳句を詠んだ。
野毛山公園(散策地区) 満開の桜で囲われた芝生広場 野毛山公園(散策地区) 満開の桜で囲われた芝生広場 
野毛山公園(散策地区) 2つの入口からの合流点 野毛山公園(散策地区) 2つの入口からの合流点 

階段を上って芝生広場に来る道と、老松中学校行きの車道からの道とが合流する。
野毛山公園(散策地区) ラジオ塔 野毛山公園(散策地区) ラジオ塔 
野毛山公園(散策地区) ラジオ塔 野毛山公園(散策地区) ラジオ塔 

このラジオ塔は、ラジオの聴取契約者が百万人を越えた記念に日本放送協会が昭和七年に全国の著名な公園や広場に建てる計画が進められ、昭和七年度から昭和八年度中に四十一箇所が完成して、その中に野毛山公園も選ばれ建塔されたものです。

正式名 公衆用聴取施設
全高  三メートル
建塔  昭和七年十一月十九日
野毛山公園(散策地区) 道なりに進む 野毛山公園(散策地区) 道なりに進む 
野毛山公園(散策地区) 道なりに進む 野毛山公園(散策地区) 道なりに進む 
野毛山公園(散策地区) 標識に従い、左折して野毛山動物園へ 野毛山公園(散策地区) 標識に従い、左折して野毛山動物園へ 
 野毛山公園(散策地区) 崖下に池が見える 野毛山公園(散策地区) 崖下に池が見える 

展望地区から動物園入口を経て車道を歩くと、途中で小さな池に出会う。その池を上から眺めていることになる。
野毛山公園(散策地区) 標識に従い、佐久間象山碑へ 野毛山公園(散策地区) 標識に従い、佐久間象山碑へ 
野毛山公園(散策地区) 芝生広場 佐久間象山碑 野毛山公園(散策地区) 芝生広場 佐久間象山碑  
野毛山公園(散策地区) 芝生広場 佐久間象山碑 野毛山公園(散策地区) 芝生広場 佐久間象山碑  

解説文は公園入口の「野毛山歴史探訪」である。

ペリーから敬礼を受けたただ一人の日本人と言われました。

 佐久間象山は信州松代藩に1811年(文化8年)に生まれました。松代藩の藩主真田幸貫は若年期に様々な学問を修めた象山を洋学研究の担当者の役に任じました。その後、象山は兵学を学び、大砲やガラスの製造を手がけるなど西洋の技術、学問を積極的に取り入れました。
 1852年(嘉永5年)、江戸に赴いた象山は幕府に、戦略上の視点から開港場に選ばれた下田ではなく横浜の開港を提言しました。
 その後、1864年(元治元年)開国派であった象山は京都に赴きましたが、攘夷派の前田伊右衛門、河上彦斎らによって暗殺されてしまいました。
 象山の門弟には勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など開国派の中心人物が名前を連ねています。まさに日本の近代化を支えた立役者といえるでしょう。
 公園内に顕彰碑が立っています。
野毛山公園(散策地区) 芝生広場 野毛山公園(散策地区) 芝生広場 



 
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