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散り始めた桜並木の野毛山公園散策

【関連サイト】   歴史と緑にふれる和の西横浜ウォーキング(H18−04−15)


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横浜駅根岸道路 野毛坂交差点 西区歴史街道 横浜駅根岸道路 野毛坂交差点 西区歴史街道 

○西区歴史街道 〜西区は道の交差点、すべての道は開港へ〜
西区は、昭和19年4月1日に、中区から独立して誕生しました。今から250年ほど前までは、現在の西区の区域は、芝生村(しぼうむら)と戸部村(とべむら)が、東海道の景勝地である「袖ヶ浦」という三角形の内海をはさんで成り立っていました。神奈川宿台町から見た景色は、たいへん美しく、「武蔵国第一の景」と言われるほどでした。
宝永4(1707)年の富士山大噴火による降灰の影響等で海が浅くなり湿地帯になっていくと、18世紀以降、埋め立てによる新田開発が進められ、「宝暦新田」「平沼新田」「岡野新田」なとが造成されました。その結果、150年ほど前の「袖ヶ浦」は、畑と塩田の風景に変わりました。なお、Γ横浜道」ができるまでは、神奈川から開港場へは州崎神社前から渡し船によっていました。
西区には「東海道(とうかいどう)」「横浜道(よこはまみち)」「保土ヶ谷道(ほどがやみち)」という三つの古道が通っていました。
江戸時代の大動脈であった「東海道」は、江戸方からは袖ヶ浦の海岸に沿って、神奈川宿台(現、神奈川区台町)の坂を下り、大通り(環状1号)に出て勧行寺の前を通り、浅間下交差点を横切って浅間下公園の中を抜け、浅間神社へと続いていました。そして、追分、現在の松原商店街を通り、天王町、帷子町を経て保土ヶ谷宿へつながっていました。
わが国は、安政6(1859)年に開港し、横浜村(現在の関内地区)に開港場が築かれました。そのとき、東海道と開港場を結ぶために作られだのが「横浜道」で、初めは「しんみち」と呼ばれていました。浅間下交差点近くの薬局横が起点で、岡野、平沼新田の埋立地と海面の境に盛土して道とし、帷子川、石崎川の河口に「新田間橋」「平沼橋」「石崎橋(現敷島橋)が架けられました。戸部からは野毛山に切通しを開き、都橋、吉田橋関門を経て開港場に至っていました。
また、「保土ヶ谷道」は、保土ヶ谷宿と戸部村を結ぶ古道で、現在の保土ヶ谷区岩間町大門通り交差点で東海道と分かれ、鉄道線路をこえて安楽寺(保土ヶ谷区西久保町)から左折、藤棚商店街を通り、願成寺の下の道を道り「暗闇(くらやみ)坂」を抜け、伊勢町商店街から「横浜道」に合流していました。
開港場をめざして全国から集まる人々や物資は、この西区内の三つの古道をひんぱんに行き交いましだ。それにともない、わが国に入ってきたさまざまな文化も、これらの道を通って全国に伝えられていきました。重要な役割を果たしてきた三つの古道の周辺には、さまざまな歴史資源が残っています。
横浜駅根岸道路 野毛坂交差点 西区歴史街道 横浜駅根岸道路 野毛坂交差点 西区歴史街道 
野毛山公園 横浜市 中央図書館 野毛山公園 横浜市 中央図書館 
野毛山公園 入口 野毛山公園 入口 

交差点を曲がると、すぐ突き当たりで少し直進すると入口がある。左折して坂を上って行くと野毛山動物園に向かう。
野毛山公園 案内 野毛山公園 案内 

 野毛山公園は日本の公園発祥の地である横浜で横浜公園や掃部山公園に次ぐ長い歴史を持つ公園です。
 明治時代の野毛山は豪商たちの屋敷が立ち並ぶ住宅地でした。現在の散策地区には生糸貿易で財を築いた原善三郎の邸宅が、現在の野毛山動物園の区域には茂木惣兵衛の別荘がありました。(以下 略)
野毛山公園 案内 野毛山公園 案内 
野毛山公園 野毛山歴史探訪 野毛山公園 野毛山歴史探訪 
野毛山公園 野毛山歴史探訪 野毛山公園 野毛山歴史探訪 

横浜道と野毛の切通し

 1858年(安政5年)当時は、東海道筋から横浜への交通は非常に不便であったため、幕府は東海道筋の芝生村(現浅間町交差点付近)から横浜(関内);こいたる「横浜道」と呼ばれる道路を開きました。(当時、東海道と連絡するには、保土ヶ谷から井土ヶ谷、蒔田を通るか、神奈川からの舟運しかありませんでした。)
 この道は、芝生村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路築くとともに、新田間、平沼、石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂・野毛の切通しを開き、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けたものでした。
 野毛の切通しへと至る道の途中には関門と番所がいくつも設けられ通行が厳重にチェックされました。
 野毛の切通しの上に神奈川奉行所を築いたのは、いざというとき開港場に架かる吉田橋を落とし野毛山を砦とする意図があったとも言われています。
野毛山公園 野毛山公園 
野毛山公園 満開の桜が咲く芝生広場 野毛山公園 満開の桜が咲く芝生広場 

ただ芝生があるだけの広場で桜も何本か咲いているだけである。
野毛山公園 芝生広場 中村汀女碑 野毛山公園 芝生広場 中村汀女碑 

明治三十三年熊本市生まれ。本名破魔子。
「ホトトギス」に属し高浜虚子の指導を受けたのち句誌「風花」を創刊主宰した。
 蕗のたうおもひおもひの夕汽笛
かつてこの地に住みこの句をはじめ、この公園からの情景など、数々の俳句を詠んだ。
野毛山公園 ラジオ塔 野毛山公園 ラジオ塔 
野毛山公園 ラジオ塔 野毛山公園 ラジオ塔 

このラジオ塔はラジオの聴取契約者が百万人を越えた記念に日本放送協会が昭和七年に全国の著名な講演や広場に建てる計画が進められ昭和八年度中に四十一ヵ所が完成してその中に野毛山公園も選ばれ建塔されたものです。

正式名 公衆用聴取施設
全高  三メートル
建塔  昭和七年十一月十九日
野毛山公園 突き当りを右折して野毛山動物園へ 野毛山公園 突き当りを右折して野毛山動物園へ 
野毛山公園 左折して野毛山動物園へ 野毛山公園 左折して野毛山動物園へ 
野毛山公園 佐久間象山碑 野毛山公園 佐久間象山碑 

ペリーから敬礼を受けた
ただ一人の日本人と言われました。

 佐久間象山は信州松代藩に1811年(文化8年)に生まれました。松代藩の藩主真田幸貫は若年期に様々な学問を修めた象山を洋学研究の担当者の役に任じました。その後、象山は兵学を学び、大砲やガラスの製造を手がけるなど西洋の技術、学問を積極的に取り入れました。
 1852年(嘉永5年)、江戸に赴いた象山は幕府に、戦略上の視点から開港場に選ばれた下田ではなく横浜の開港を提言しました。
 その後、1864年(元治元年)開国派であった象山は京都に赴きましたが、攘夷派の前田伊右衛門、河上彦斎らによって暗殺されてしまいました。
 象山の門弟には勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など開国派の中心人物が名前を連ねています。まさに日本の近代化を支えた立役者といえるでしょう。
 公園内に顕彰碑が立っています。
野毛山公園 佐久間象山碑 野毛山公園 佐久間象山碑 

解説文は公園入口の「野毛山歴史探訪」である。
野毛山公園 野毛山公園交番前交差点で右折 野毛山公園 野毛山公園交番前交差点で右折 

野毛山公園は東西に延びた公園で、北西の角がこの交番前交差点である。この先に野毛山動物園がある。
左折して坂を下ると、野毛坂交差点に至る。
野毛山動物園 入口 野毛山動物園 入口 
野毛山動物園 入口 野毛山動物園 入口 

大都会の動物園で入場無料は貴重で、乳幼児を連れた親子連れが次々に訪れている。
野毛山公園 野毛山公園交番前交差点で直進 野毛山公園 野毛山公園交番前交差点で直進 

左折すると野毛山公園の入口で、ここから出てきた。戻るので直進して公園の外周を歩く。
野毛山公園 案内図 野毛山公園 案内図 

右の角が野毛山公園、上が野毛山動物園、右が野毛山配水池である。現在地は右の角の最も下がった所である。
野毛山公園 横浜市 中央図書館 野毛山公園 横浜市 中央図書館 
野毛山公園 横浜市 中央図書館角で右折 野毛山公園 横浜市 中央図書館角で右折 
野毛山公園 野毛坂交差点で横浜駅根岸道路を渡り、野毛坂通りへ 野毛山公園 野毛坂交差点で横浜駅根岸道路を渡り、野毛坂通りへ 



 
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