白山神社〜根津神社
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都営地下鉄 三田線 白山駅 | |
旧町名案内 白山前町 古くは小石川村に属した。元禄12年(1699)に町屋を開いた。町名は、白山権現社(白山神社)の境内の前通りにあったので名づけられた。 明治2年、白山表門前、白山社裏門前、小石川数寄屋町、妙清寺・常検寺及び浄心寺門前を併せた。さらに、明治5年には上駒込村飛地、鶏声ヶ窪を併せた。 白山神社は、初め、天暦2年(948)加賀の国の一の宮白山神社を、旧本郷元町に祭ったのに始まる。のち現在の小石川植物園の地に移ったが、明暦元年(1655)に白山御殿の造営のため、現在地に移った、それで5代将軍綱吉とその生母桂昌院の信仰を受け大いに栄えた。 白山神社の門前町として、この町は発展し た。 |
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白山神社 | |
白山神社 孫文先生座石 明治43年5月中旬に孫文と、宮崎滔天とが白山神社の石に座り、中国革命について話し合った、と言う故事を記念し、昭和58年に建てられた。 |
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白山神社 孫文先生座石 | |
白山神社 | |
白山神社 | |
白山上交差点 白山神社は旧白山通りにあり、白山上交差点は旧白山通りと国道17号線との交差点である。旧白山通りを道なりに進む。この道は、団子坂を経て千駄木の団子坂下交差点で不忍通りに着く。 |
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向丘2交差点で右折 本郷通りを南下し、寺町を歩き向丘1交差点で左折する。根津神社が意外と近い、と感じた。 白山神社は水道橋から巣鴨に向かう白山通りにあり、根津神社は上野の不忍池脇を通る不忍通りにあるので一見遠く感じる。 |
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旧町名案内 駒込蓬莱町 本郷通りの寺町にある。 元文年間(1736〜41)町屋が聞かれた。町 内向側に寺院4か寺(瑞泰寺・栄松寺・清林寺・光源寺)があったので、四軒寺町と唱えた。本郷通りの長元寺・浄心寺の両側を江戸時代、ウナギナワテ(まっすぐ細い道)といわれた。 明治5年、浅嘉町の一部と高林寺門前、浩妙寺、浄心寺などの寺地を併せ、町名を蓬莱町とした。 |
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日本医科大学 千駄木校舎で、この横の道の同大学の同窓会館前に夏目漱石の旧居跡の碑がある。 日本医大前交差点で右折、新坂(権現坂・S坂)を下り、根津神社に向う。 |
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根津神社 新坂沿いに見た根津神社で、手前は神社所有の有料のつつじ苑である。 |
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新坂(権現坂・S坂) 本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため、新坂と呼んだ。また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。森鴎外の小説『青年』(明治43年作)に、「純一は権現前の坂の方に向いて歩き出した。・‥右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲、左は出来たばかりの会堂(注・教会堂は今もある)で、・・・坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。 ・・・」とある。 旧制第一高等学校の生徒たちが、この小説『青年』を読み、好んでこの坂をS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近くの観潮楼に住んだ森鴎外の命名である。 根津神社現社殿の造営は宝永3年(1706)である。五代将軍徳川柳吉が、柳豊(六代将軍家宣)を世継ぎとしたとき、その産土神として、団子坂北の元根津から、遷座したものである。 |
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根津神社 徳川5代将軍綱吉が世継が決まった時に現在の社殿を奉建、千駄本の|日社地より御遷座した。権現造りの本殿、拝殿、幣殿、唐門、楼門、透塀は国の重要文化財に指定されている。4月下旬頃、約50種3,000株のツツジが咲くつつじ苑が有名。 |
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根津神社 | |
根津神社 茅の輪 | |
根津神社 茅の輪 | |
根津神社 | |
根津神社 つつじ苑 | |
根津神社 三百年大祭 宝永3年(1706)の遷座から300年を経て、今年(平成18年)の9月に大祭が行われる。 |
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