薬研堀不動尊〜両国橋〜両国シティコア(旧国技館)

【関連サイト】 歴史点描・江戸風景)有名人の墓所 回向院(両国、小塚原) 鈴ヶ森刑場遺跡


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清洲橋通り 久松町交差点で金座通りを渡る 清洲橋通り 久松町交差点で金座通りを渡る 

清洲橋通りは北から南への一方通行である。
清洲橋通り 久松町交差点で金座通りを渡る 清洲橋通り 久松町交差点で金座通りを渡る 

交差点を渡って左の2軒目にあるジョナサンの壁に、賀茂真淵県居の跡の案内板がある。
清洲橋通り 賀茂真淵県居の跡 清洲橋通り 賀茂真淵県居の跡 

古歌をとおして、わが国の古典学の基礎を築いた賀茂真淵(一六九七〜一七六九)は、現在の浜松市の出身で、はじめ京に出て荷田春満に人門し、元文二年(一七三七)江戸に下り、田安宗武(徳川三卿の一人)に迎えられ、和学を講じた。
清洲橋通り 東日本橋交差点で右折、清杉通りへ 清洲橋通り 東日本橋交差点で右折、清杉通りへ 

東日本橋交差点で清洲橋通りは分岐し、左に向かう。
清杉通り 右折して柳橋通りへ 清杉通り 右折して柳橋通りへ 

無名の交差点であるが、薬研堀不動院参道の看板が目立つ。薬研堀不動院は川崎大師東京別院で、隣の駐車場は神田明神の神幸祭の昼食時に両国旧仮置屋として使われる。
清杉通り 右折して柳橋通りへ 清杉通り 右折して柳橋通りへ 
柳橋通り ガソリンスタンドで右折 柳橋通り ガソリンスタンドで右折 

柳橋通りを進むと、ビルの2階に「やげん堀不動尊」の案内板が掲げられているので分かりやすい。
川崎大師東京別院 薬研堀不動院 川崎大師東京別院 薬研堀不動院 

不動院の横の駐車場は、神田明神の神幸祭で両国旧仮置屋として、昼食休憩時に3基の鳳輦が収められる。
柳橋通りを北上 柳橋通りを北上 

柳橋通りは北上して京葉道路を渡り、粋筋で有名な神田川に架かる柳橋を渡る。
柳橋通り 京葉道路に出て右折 柳橋通り 京葉道路に出て右折 

右折すると目の前に両国橋があり、柳橋通りは京葉道路を渡り中央の白いビルの横の道となって、柳橋を渡る。柳橋は神田川が隅田川に注ぐ河口に架かる橋である。
京葉道路 両国橋 京葉道路 両国橋 

万治2年(1660年)、武蔵と下総の二つの国をまたぐ橋として木橋が架けられたのが最初。8代将軍吉宗の時代に悪病追放のための水神祭で花火を打ち上げたのが花火大会の初めである。
京葉道路 両国橋 京葉道路 両国橋 

首都高6号向島線の下を進むと、両国橋東詰に有名な「もゝんじや」がある。
京葉道路 両国橋 京葉道路 両国橋 

両国橋の名は、武蔵と下総との二国を結ぶ橋であるところから、こう呼ばれたが、正式の名はただ“大橋”であった。しかし、新大橋なども造られたため、両国橋が正式の名となった。江戸一の大火である明暦の振袖火事(一六五七年)では、橋がなくて逃げられず、多数の死者が出た。そのため、大火のあと、この橋が架けられた。
回向院は、その人々を弔うために建てられた。のちに勧進相撲がもよおされることとなったのである。
この橋が架かったため、本所・深川が江戸の新市街として発展することとなった。橋詰の両側は、賑やかな遊び場所としても開けた。幕末からは、川開きの花火もあって、江戸の市民には喜ばれた。
現在の橋は、昭和七年(一九三二年)に完成した。
京葉道路 両国橋 京葉道路 両国橋 
京葉道路 両国橋東詰 もゝんじや 京葉道路 両国橋東詰 もゝんじや 

 享保三年(一七一八)創業の猪料理店で、正式な店名は「もゝんじやの豊田屋」です。二百九十年に渡って伝統の江戸の味を守ってきました。もゝんじ」とは「百獣」のことで、四つ足
の動物の肉を扱うことが屋号の由来です。もとは漢方の薬屋でしたが、薬の一種として出した猪が人気商品となり、料理店へ転身しました。
 昔から猪の肉は、冷え性や疲労回復に効果があり、肉食が禁じられた江戸時代でも、「山くじら」と称して食べられていました。
 猪は丹波や鈴鹿などから仕入れたもので、味噌仕立てのすき焼にします。その他、鹿刺し、狸汁など、他ではめったに味わえない珍しい肉料理が味わえます。
京葉道路 両国橋東詰 もゝんじや 京葉道路 両国橋東詰 もゝんじや 
京葉道路 両国一丁目交差点で一の橋通りを渡る 京葉道路 両国一丁目交差点で一の橋通りを渡る 

明暦三年(1657)江戸の文半を灰にした大火の後、幕府は市街地の区画文整理を行いました。万治二年(1659)、江戸城の再興と共に開始された事業は寛文元年(1661)に完了しました。深川地区は堅川の掘削の後、架けられた橋に西から一之橋、ニ之橋、‥‥‥五之橋と名付けられました。その後、各々の橋の通りが通り名となったようです。

二ツ目通りは清澄通り、五ツ目通りは明治通りと呼ばれ、三ツ目通りと、四ツ目通りはそのまま道路名となっている。一ツ目通りはこの通りで、「もゝんじや」の先にある小道である。
京葉道路 両国二丁目交差点 京葉道路 両国二丁目交差点 

三叉路の交差点で、左折すると両国駅に着き、突き当りは回向院、その隣に旧国技館の両国コアシティがある。
京葉道路 回向院 京葉道路 回向院 

回向院は勧進相撲発祥の地と言われ、境内には相撲関係の石碑や、鼠小僧次郎吉の墓などがある。

明暦三年(一六五七)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、その多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
 有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々
な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
京葉道路 両国コアシティ(旧国技館) 京葉道路 両国コアシティ(旧国技館) 

 旧国技館は、天保四年(一八三三)から回向院で相撲興行が始まったことから、明治四十二年(一九〇九)に、その境内に建設されました。建設費は二十八万円(現在の価値では七十五億円程度)です。
 ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は一万二千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。
 東京大空襲まで、三度の焼失があり、戦後は米軍に接収され、返還後は日大講堂などとして利用されていました。昭和五十八年(一九八三)に解体されました。
 左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。
京葉道路 両国コアシティ(旧国技館) 京葉道路 両国コアシティ(旧国技館) 

この輪についての説明は立てられていないが、回向院前の説明版では当時の土俵の位置を示している。

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