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散り始めた桜並木の掃部山公園散策

【関連サイト】   歴史と緑にふれる和の西横浜ウォーキング(H18−04−15)


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掃部山公園 北入口(岩亀横丁口) 掃部山公園 北入口(岩亀横丁口) 

岩亀横丁の杉原酒店(三河屋)角で左を見ると、北入口が見える。坂を上ると自由広場(児童遊園地)を経て、自由広場である。
満開の桜並木の掃部山公園 坂を上る 満開の桜並木の掃部山公園 坂を上る 
満開の桜並木の掃部山公園 自由広場(児童遊園地) 満開の桜並木の掃部山公園 自由広場(児童遊園地) 

遊具が置かれており、保育園児が遊んでいた。
掃部山公園 公園案内 掃部山公園 公園案内 

 現在掃部山公園になっている土地は、明治初期の新橋横浜間の鉄道敷設に携わった、エドモンド・モレルなどの鉄道技師の官舎が建てられていたほか、ここの地下から湧く水を蒸気機関車の給水に利用していたことから、鉄道山と呼ばれていました。
 その後、明治十七年に本市の開港に縁の深い井伊直弼の記念碑建立の際に、横浜正金銀行松井十三郎ら旧彦根藩士により買い取られ、井伊家の所有となりました。掃部山公園内の日本庭園などは井伊家所有の時代に築造されたものと考えることができます。その後、大正三年にこの土地が井伊家より本市に寄贈され、掃部山公園として公開されました。
 公園の南西側の一角にある能楽堂は、平成八年三月に完成したもので、横浜市の有形文化財に指定されている旧染井能舞台を館内において移築・復元しているものです。この染井能舞台は、もともと明治初期に加賀藩主だった前田斉泰公が東京根岸の自邸に建てたもので、後に東京駒込の染井に移築され、戦後には能楽再興の本拠地となっていたものです。
 このように明治以来の長い歴史と文化的要素を有する掃部山公園では、地域の人達が中心となって、これらの歴史とゆかりの深い薪能や虫の音を聞く会などのお祭りが、催されるなど、地域の人々に親しまれています。
掃部山公園 自由広場 左折して銅像広場へ 掃部山公園 自由広場 左折して銅像広場へ 
満開の桜並木の掃部山公園 自由広場 満開の桜並木の掃部山公園 自由広場 

桜並木の向こうに桜木町駅前のランドマークタワーが見える。
満開の桜並木の掃部山公園 自由広場 満開の桜並木の掃部山公園 自由広場 

階段を上り銅像広場へ向かう。
満開の桜並木の掃部山公園 銅像広場 満開の桜並木の掃部山公園 銅像広場 
満開の桜並木の掃部山公園 銅像広場 満開の桜並木の掃部山公園 銅像広場 
満開の桜並木の掃部山公園 銅像広場 満開の桜並木の掃部山公園 銅像広場 
満開の桜並木の掃部山公園 銅像広場 満開の桜並木の掃部山公園 銅像広場 

自由広場、銅像広場とも、広場の周囲を桜の古木が取り囲んでいる。
満開の桜並木の掃部山公園 銅像広場 井伊掃部頭像 満開の桜並木の掃部山公園 銅像広場 井伊掃部頭像 

 明治四二年七月、横浜開港五〇年記念に際して、旧彦根藩有志が藩主の開港功績の顕彰のため、大老井伊掃部頭直弼の銅像を戸部の丘に建立し、その地を掃部山と名付けて記念しました。銅像の左側にある水飲み施設はその時に子爵井伊直安より寄付されたものです。
 当時の銅像は、落田文蔵、岡崎雪声によって製作され、その姿は「正四位上左近衛権中将」の正装で、高さは約三・六メートルを測リました。

井伊直弼は東京の豪徳寺に墓がある。
満開の桜並木の掃部山公園 銅像広場 満開の桜並木の掃部山公園 銅像広場 
掃部山公園 左の道を歩き、横浜能楽堂へ 掃部山公園 左の道を歩き、横浜能楽堂へ 



 
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