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伊勢佐木町入口交差点 吉田橋関門跡
安政六年(一八五九)六月二日、横浜が開港となって交易、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を設け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことより「吉田橋」と呼ばれました。 吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。 関門は、当初港町側に設けられましたが、文久四年(一八六四)二月に吉田町側に移設されました。 関内、関外と言う呼び名はこのとき以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は明治四年に廃止されました。 |
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伊勢佐木町入口交差点 吉田橋関門跡 |
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馬車道 馬車道交差点で国道16号線を渡る |
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馬車道 馬車道交差点界隈 歴史遺構案内図 |
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馬車道を北上 関内ホール |
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馬車道を北上 関内ホール |
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馬車道を北上 中華料理 生香園
10年以上前にテレビで人気の中華料理の周兄弟の弟である周富輝の店で、年末になると本人が丸首シャツ姿で大掃除をしているのが見られた。 |
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馬車道を北上 写真師・下岡蓮杖顕彰碑
下岡蓮杖は、日本写真の開祖である。旧川崎銀行横浜支店の反対側にある。先端にはカメラが付いているが、第一印象は砲弾である。 |
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馬車道を北上 写真師・下岡蓮杖顕彰碑
日本写真の開祖 写真師 下岡蓮杖
嘉永元年(一八四八)オランダから長崎ヘダゲレオタイプ一式が渡来した。
弘化二年(一八四五頃)狩野派の青年絵師が、銀板写真に遭遇し、そして絵筆を折り捨て写真術習得の道へ歩み出した。この青年こそ、日本に写真師という職業を確立した日本写真の開祖下岡蓮杖その人である。
蓮杖は、来日の外国人から湿板写真の機材を入手し、筆舌に尽くしがたい辛苦の歳月を経て、文久二年(一八六二)野毛に初めての写真場を開業し、その後、弁天通りに進出し、慶応三年(一八六七)太田町五丁目角地に「富士山」と「全楽堂」「相影棲」の看板を掲げた写真館を開き大繁昌をした。
数多くの門下生を育て、我が国に於ける写真技術の先覚者として近代文化の発展に貢献した。
その業績に敬意を表し、文明開化の地、馬車道通りに写真師発祥一二五周年、日本写真の開祖写真師下岡蓮杖顕彰碑を昭和六十二年(一九八七)建立をみたのである。 |
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馬車道を北上 下岡蓮杖顕彰碑界隈 歴史遺構案内図
馬車道には多くの遺構があり、全てを見ようとすると道を何度も渡るなど大変である。 |
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馬車道を北上 県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店) |
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馬車道を北上 県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店) |
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馬車道を北上 県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店) |
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馬車道を北上 県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店)
この建物は妻木頼黄(よりなか)博士の設計による純ドイツルネッサンス様式の建造物で横浜正金銀行本店として明治三十二年(1899年)から明治三十七年(1904年)にかけて建設されたものです
明治時代の貴重な建造物として昭和四十四年三月十二日国の重要文化財に指定されました大正十二年(1923年)の関東大震災で屋上ドーム焼失しましたが建物本体は災害を免れまた昭和二十年(1945年)の横浜大空襲にも損傷されることなく現在にいたったもので昭和四十一年二月神奈川県が東京銀行からこれを譲り受けるとともに屋上ドームを復原し県立博物館として長く保存しようとするものです |
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馬車道を北上 県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店)
横浜正金銀行は、安政6年の開港以来、外国商人が主導していた貿易金融取引を改善するため、明治13年2月28日に設立されました。その後政府の保護を受けて外国貿易関係業務を専門的に担当する銀行として成長し、大正8年には世界3大為替銀行の一つに数えられるようになりました。
この建物は明治37年に横浜正金銀行本店として建設され、ドイツの近代洋風建築の影響を受け、明治時代の貴重な建造物であることがら、昭和44年3月12日には国の重要文化財の指定を受けております。
さらにこのたび、我が国の近代史のなかでも、産業経済の発展に貢献した貿易金融機関のあり方を示す貴重な建造物およびその敷地であることから、国の史跡に指定されました。
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馬車道 本町四丁目交差点で本町通りを渡り、万国橋通りへ |